第3章 異常検知 / 02
「戻りました」
朝一番にC社へ出発した千草がようやく戻ったのは、数時間後の昼休みに入ってからだった。
C社の担当者と話をしているうちに、当初の呼び出し目的以外の確認事項などが発生し、予定した時間を大幅に超過したようだ。
流石にくたびれた様子の千草は、溜息を一つ吐いて、行きより大分重さが増したらしい鞄を、デスクの上にどっさりと置く。
鞄を開け、中から大量の資料を引っ張り出すと、丁寧に整えて、環に手渡した。
「多少の懸念事項はありましたが、対応方法は既に先方と共有済みです」
環は持っていたペンを置き、「そっか…報告ありがとう」と礼を言って、千草が持ち帰った資料をぼんやりと受け取った。
千草は、資料を渡す際、不意に環の手元にある書類が視界に入り、その内容が出発前に見た時とほとんど変わっていないことに気が付いた。
「…作業、進んでいませんね。何かありましたか」
環の肩が僅かに揺れる。
環は、たっぷり数十秒、目を伏せて思考を巡らせたと思うと、ゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「今回の件、千草くんに任せて…よく分からないけど、なんだか不安…みたいな気持ちになったの」
それは、言葉にしながら、答えを探しているような様子だった。
千草は一瞬だけ黙り込んだが、すぐにいつもの淡々とした調子で返した。
「…私の対応を信用していないわけではありませんね。月村さんがやらなかったこと自体が、不安の理由です。自分の役割を奪われたから――違いますか」
ほとんど言い切るような形の千草の言葉に、環はほんの僅かに、眉根を寄せた。
「大体、合っているけれど…最後は、少し違う。役割とかじゃなくて……うまく言えないけど、私自身が、そのままバラバラになるような感覚がした…」
環は、先ほどのトイレでの浮遊感を思い返し、無意識にデスクの下で再び軽い足踏みをした。
まだ微かに、足の裏に余韻が残っている。
「…そうですか」
環の言葉を受け取り、頭の中を整理するように、千草はそっと目を伏せた。
「……では、普段分解される感覚を押しとどめるのに、仕事を使っているんですね」
そのまま暫し沈黙していたが、すぐに視線を環に戻す。
「一定の形を保つために、役割ではなく、固定具として」
相も変わらず、言い切る形だった。
「――違うなら、訂正してください」
だが今度は、最後にはっきりと、環に答えを委ねた。
「…そういう考え方はしたことがなかったけど、そうかもしれない…」
環は、晴天の霹靂と言った様子で、目を見開き、千草の顔をぽかんと眺めた。
「でも、それでいいと思ってた…」
しかし再び、自席のモニターに向かって視線を戻すと、どこか遠い目をしてそう呟く。
千草は、環の横顔を見つめたまま、変わらない様子で続けた。
「ええ、必要だったはずです。そうでなければ維持できなかった。間違いではありません。ただ――」
そこで、一瞬だけ、躊躇うように言葉を切った。
「一つだけ問題があります。壊れたとき、戻す手段がない。あなた一人では」
千草のその指摘に、環は、何も答えず、何の反応も示さなかった。
短いような長いような沈黙が流れる。
だが、やがて、表情を全く変えないまま口元だけが動いた。
「ねえ、それって…」
それは、感情の抜け落ちた、
「どうしても、元に戻さなきゃいけないものなのかな…」
凪のような、声だった。
「そのまま、壊れたままでは駄目…?」
環は、ほとんど囁き声でそう言うと、千草の方をゆっくり、ゆっくりと振り向いた。
――弱弱しく、虚ろな笑みに、うっすらとその顔を歪ませながら。
千草は環のその表情に、一瞬、目を見開く。
しかし、すぐに我に返り、環の言葉にかぶせるような勢いで切り返した。
「駄目です」
たった一言。
しかしそれは、いつもとは明らかに異なる、静かだが、火のついた声色だった。
「月村さんが困らないなら、放置します。ですが困ります、私が。壊れる前提で動かれると、調整が不可能になります」
身体ごと環に向き直り、捲し立てるような早口で続ける。
デスク上の書類に触れた指に力が入り、その紙面に皺を作る。
その姿には、普段の冷静沈着さは、微塵も残っていなかった。
「―――やめてください」
そして最後に、押しつぶされ、絞り出すような声で、そう嘆願した。
「…どうして、千草くんが困るの?」
――こんな千草は、今までかつて、見たことがない。
驚きを隠しきれない環は、それでも湧いた疑問を投げかけずにいられなかった。
「……月村さんが壊れると、私の基準が狂います。判断が鈍る、優先順位が変わる。それは合理的ではありません。――だから、困ります」
対する千草の答えは、言葉一つ一つは論理的なようで、全く理屈は通っていなかった。
あの千草がこのような支離滅裂な説明をするのは初めてで、環はひどく混乱した。
「………ごめんなさい、全然意味がわからない……」
それでも環なりにその意味を深く考えた末に、最終的には諦めたように、額を手で押さえながら、そう口にした。
「…そうですね。説明にはなっていません。ですが、事実です」
次に口を開いた千草は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
「月村さんに関する判断だけ、例外が発生します。理由は、整理できていません。…ですから、困ります」
千草は、何かに言い聞かせるようにそう繰り返した。
ふと、腕時計を見る。
気づけば、もう午後の始業開始時刻は目前に迫っていた。
「…仕事に戻りましょう」
千草は、それきり口を閉ざした。
出しっぱなしになっていた鞄を片付けると、デスクのパソコンを立ち上げて、いつも通りに仕事を再開する準備をする。
残された休憩時間は、あと数分。
その間、千草の言葉は、遅効性の毒のように、環の頭をぐるぐると巡り続けていた。
次回更新は4/3(金) 20時の予定です。
2026/4/23 地の文の表現を一部修正




