第3章 異常検知 / 01
それは、千草が環に対する意図不明の干渉を始めて、数週間が経った日のことだった。
(……また、だ)
デスクの下で、一定の長い間隔で右膝を襲う、ピリッとした電気の走るような痛み。
あえて意識しないようにしていたが、やはり、気のせいではない。
それは、ほんの僅かな、決して気にするほどでもない痛みだった。
だが数週間前、同様の痛みから3日間も高熱で欠勤するはめになったことを思うと、決して楽観視はできなかった。
もしかしたら、一度重症化したせいで、妙な癖がついてしまったのかもしれない。
(一応、薬を飲んでおこう)
実際の痛みがどうこうよりも、このままの状態では、とても仕事に集中できない。
環は、鞄から常備している解熱鎮痛剤の入った小袋を取り出した。
給湯室に行き、カップに水を入れ、薬を飲み下す。
幸い、薬の効き目はすぐに訪れた。デスクに戻ってしばらくすると、足の痛みと強張りはすっと解けていく。
ほっとした環は、ようやく仕事に集中し始めた。ところが――
「月村、悪い。C社から名指しで呼び出し入ったんだが、行けるか?」
少し恐縮した面持ちの課長からの、業務命令。
環は一瞬だけ足に視線を落とした。今のところ、薬のおかげで痛みは治まっている。
C社はそんなに会社から距離は離れていない。うまく短時間で対応を終わらせれば、きっと問題ないはずだ。
「はい、大丈夫で――」
「いえ」
承諾しかけた環の言葉を、静かで、しかし存在感のある声が遮る。
「私が代わりに行きます」
それは、千草の声だった。
課長は驚きに一瞬言葉を詰まらせたが、頬をぽりぽりと掻いて、言い聞かせるような口調で返した。
「いやしかし千草、向こうが直接、月村がいいと――」
「月村さん、足が痛むのではないですか」
不意打ちで事実を言い当てられた環が、え、とわずかに呻き声を漏らす。
心臓の鼓動がじわじわと高まっていき、全身が小刻みに震え出す。
「な…んで」
「朝から、右足を庇うように歩いています。…先ほど、薬も飲まれていたようですが」
千草は淡々と事実を指摘し、環のデスクに置きっぱなしになっていた薬の小袋にちらりと視線を向けた。
その視線に、環の身体が僅かにびくりと跳ねる。
「……月村、具合が悪いのか?」
課長は今度こそ、目を丸くして驚愕の表情を見せ、環にそう尋ねた。
環は、ばつが悪そうに目を泳がせ、何も答えない。
「この間のこともあります。無理に外出するのは危険です」
そこに追い打ちをかけるように、千草がさらに指摘する。
「そうか…。そういうことなら、今回は千草に頼んだ方がいいな。月村、無理するな」
肩を落として軽く息を吐いた課長が、ここで完全に千草の意見に同調した。
千草は既に、パソコンの電源を落とし、鞄に必要な道具を詰めて、出発の準備を始めていた。
「C社はこれまで月村さんと私の協力体制で対応しており、内容は把握しています。不整合は出しません」
「………」
環は、隠していた体調不良が露見した気まずさから、しばらくそのまま俯いて押し黙っていた。
しかし、やがて観念したように、C社用の資料をデスクの引き出しからゆっくりと取り出した。
「…分かりました。先方にはよろしく伝えてください」
そう言って、千草に資料をそっと差し出す。
千草の手がそれを受け取って、環の手から資料がすり抜ける。
――その瞬間、環は、資料と一緒に、自分の中の大事な部品まで抜け落ちてしまうような気がした。
資料を受け取った千草は、「承知しました」と言い、あっという間に準備を終えて出発していった。
残された環は、仕方なくデスクに向き直るが、しばらくモニター画面をぼんやり見つめたまま動けなかった。
すると、そのタイミングを見計らったように、向かいの席の木村が、「…あのさ、」と少し遠慮がちに声をかけてきた。
「月村さん…そんな、一人で全部抱えなくたっていいんだよ。お互いさまなんだから、月村さんがしんどい時は、代わりに誰かを頼れば大丈夫だよ」
――ぐらりと、世界が揺らいだ。
木村の声が、蛇のように、環の脳内にじわじわと侵食してくる。
「…そう、ですね」
かろうじて愛想笑いを浮かべて言うが、喉奥が渇いて、うまく声が出てこない。
周りの社員たちの声が急激に遠ざかり、目の前の画面がぼやけ出す。
木村の言葉に、悪意などこれっぽっちも存在しない。
むしろ、環を大切な仲間だと思っているからこその、思いやりであり忠告である。
――そんなことは分かっている。
◇◇◇
再び仕事への集中力を失った環は、トイレを言い訳に、一度席を外した。
誰もいない社内トイレで、手洗い場の鏡の前に、表情を失った環がぼんやりと立っている。
鏡の中には確かに見慣れた自分の顔が映っているのに、どこか自分でないような気がする。
足元にふわふわとした浮遊感を感じる。これは、この間のような熱や足の痛みのせいじゃない。
環は、地面の感触を確かめるように、その場で何度か軽い足踏みをした。
(……私、今、ちゃんと立ってる?)
心の中で、誰に対してか分からない問いかけをする。
しかしどれだけ待っても、その答えが返ってくることは、決して無かった。
次回更新は3/28(土) 20時の予定です。
2026/4/23 地の文の表現を一部修正




