第5章 権限昇格 / 01
翌朝。
出勤した環は、いつもより随分軽い足取りで、運用サポート部のドアを開けた。
昨日、再発しかけた足の痛みは、一晩眠ったら意外にも綺麗さっぱりと消えていた。
また重症化したらと、昨夜、眠る前までは気が気でなかったが、これで安心して仕事にあたることができる。
始業開始前の、徐々に人が増え騒がしくなっていくオフィスの中、今日こそは停滞した業務を全て片付けてしまおうと密かに決意して、環は自席についた。
「体調はいかがですか」
「大丈夫、もうすっかりよくなったみたい」
「そうですか。それならよかったです」
隣席の千草とのそのやり取りは、最早、毎朝の通過儀礼と化していた。
昨日、千草とはややこしい事態になる場面もあったが、今日はひとまずいつも通り過ごせるだろう。事実、体調に問題は無くなったのだから。
環は、昨日机に置きっぱなしにしていた、やりかけの書類を出そうとして――気づく。
書類が、無い。
「月村さん」
千草が、更に声をかけてくる。
どうやら、今朝のやり取りは、通過儀礼だけに留まらなかったらしい。
「本日の業務一覧です」
そう言って渡された紙には、近々に締切がやってくる環の担当業務が、整然と一覧にまとめられていた。
その横には、ご丁寧に時間単位の作業スケジュールまで記載してある。
「調整しました。本日から定時後の残業は禁止です。異論はありますか」
何食わぬ顔で、千草は言う。
「…………は、」
――これは。
環は、自身のデスク周りに今一度視線を滑らせた。
無い。千草に渡された一覧に乗っている仕事以外の、関連資料が、全て。
――境界線を、踏み越えられた。
「……千草くん」
環の目の色が、明確に変わる。
"仕事のパートナー"から、"侵略者"に対するものへ。
「なぜ、こんなことを?」
冷ややかな声だった。
「千草くんは、私の上司でも何でもないでしょう」
そう言って、渡された書類を、ばさりとデスクに放り出した。
「業務効率です」
千草は眉一つ動かさずに即答した。
「月村さんは普段、この約1.5倍の作業量をこなしています。ただし継続すると、3日後に精度が落ちます」
千草は、環が放り出した書類を拾い直すと、視線を落とした。
「過去3か月分のデータ傾向です。月村さんが無理をするほど、かえって会社にとって悪影響が生じます」
環は、その言葉に、呆れたように溜息をこぼした。
「…そんなデータ、いつ取ったの…」
「業務結果と勤務時間から計測・分析しました」
相変わらず手元の書類から視線を動かさないまま、しれっと言う。
その至極当然と言わんばかりの、一歩も引く様子もない千草に、環は次第に脱力していった。
深い溜息をつく。
それを合図とするように、再び千草に差し出された書類を、環は何も言わずに受け取った。
「…とりあえず、やってみる」
「ええ、ありがとうございます。それと――」
千草は、ちらりとオフィスの時計に視線を投げた。
「15時に一度区切りを入れてください。5分でかまいません」
◇◇◇
その日の環の仕事は、特段緊急対応が無かったにせよ、驚くほどに順調に進んだ。
千草お手製の業務一覧は、単に緊急性を優先してピックアップされているだけでなく、決められた順番どおりにこなすことで負荷が最小限になるように設計されているようだった。
また、事前に整理されたデスクは、余計なノイズを一切意識に入れさせず、それもまた円滑な業務遂行に寄与していた。
環は、ありがたいような、悔しいような複雑な気持ちで、黙々と仕事をこなしていた。
そして、あっという間に、時刻は15時を迎える。
「15時です」
時計の秒針がぴったり12を指した瞬間、千草は環を振り向くと、時報アナウンスのように告げた。
環は、仕事に集中して気づかないふりをして、無視を決め込んだ。
千草は、しばらく待っても環が反応を示さないと見るや否や、唐突に席を立ちあがった。
諦めたのかと思い、環は構わずそのまま仕事を続ける。
しかし、ほんの数分足らずで千草は戻って来た。
「5分」
その単語とともに、環の視界の中央に、突如白いマグカップが現れる。
マグカップの中には、千草が今淹れてきたばかりと思われるコーヒーの水面が、ゆらゆらと揺れていた。
「………」
環は、観念して、作業を一時中断し、黙ってカップを受け取った。
千草は、ようやく環が仕事の手を止めたことを確認すると、自席に座り、仕事を再開した。
環は、コーヒーを少し口に含みながら、ゆったりと背もたれに寄りかかった。
横目で、ちらりと千草を見る。
「…ねえ、千草くん」
「はい」
ふいに話しかけた環に、千草はモニター画面から視線を外さないまま短く答えた。
「千草くんは、いつ休憩とるの?」
それは、ほとんど環の意地から生まれた質問だった。
人に休憩を強制しておきながら、自分だけは平然と仕事を続けている千草に、何かほんの一つでも物申しておかなければ、気が済まなかった。
「月村さんが終わった後でとります。同時に休むと呼び出しに対応できません。月村さんは気にしないで休んでください」
千草は、相変わらず作業の手を止めないまま、受け流すように答える。
だが、環は更に質問を重ねた。
「千草くん。うちへの呼び出しって、ほとんど外部からだよね。例えば千草くんが休憩をとって、私が仕事をしている間に、A社から呼び出しがあった場合は、私が1人で行ってもいいってことかな」
「駄目です」
即答。
「月村さん1人で行かせるわけにいきません。私も対応します。それとも、1人で行きたい理由がありますか」
ようやく環に視線を向けると、千草は言う。
「いや、問題はそこじゃないよ。今は私が行きたいかどうかじゃなくて、『じゃあ千草くんはいつ休憩とるの?』って話だから」
いつになく滑らかに、環はそう返した。
その声は、普段仕事で厄介な顧客の対応をしている時と、ほぼ同一のトーンだった。
「……」
千草が、ここで初めて、一瞬だけ黙り込む。
環は、また何をどう言い返そうかと脳内で想定問答を繰り広げていたが、次に千草から返って来た答えは、あまりにも環の予想の斜め上をいく内容だった。
「休憩なら今とっています」
「はい?」
環の声が思い切り裏返る。
「月村さんが動いている間が、私にとって最も負荷が高い。私はそれに合わせています」
「…な、何それ?どういう意味?」
「そのままの意味です。月村さんの休憩は、私にとっても休憩になります。ですから問題ありません」
昨日に引き続き、またしても千草の発言の意味が全く分からない。
頭上にクエスチョンマークがいくつも浮かんでいそうな環を見て、千草は、軽く溜息を吐いた。
「…納得できませんか」
じっと環の目を見つめて言う千草。
環は、静かに頭を横に振った。
「できません」
目を伏せ、きっぱりと告げた。
そして、これ以上の議論は無用とばかりに、視線を外し、再びカップに口につける。
千草は、今度こそ黙り込み、しばらく考えるような素振りを見せたあと、ゆっくりと口を開いた。
「…分かりました。では同時にとります」
千草は観念したように、キーボードを打つ手を止めた。
「ただし、条件があります。月村さんが休憩の5分間、席を離れるなら私もそうします。席を離れないなら、私は休憩を取りません。どうしますか」
環は、その条件を聞いて、内心首を傾げた。
自分が席を離れることと、千草の休憩取得に一体何の関係があるのか、全く分からなかった。
しかし、意味はともかく、その程度であれば、条件としては決して難しいものではない。
「…うん、分かった。それでいいよ」
「承知しました」
了承した千草は、再び椅子から立ち上がった。
まだ序盤ではありますが、ここで丁度10エピソード目となりました。
数ある作品の中で、本作をここまでお読みいただきありがとうございます。
引き続き、環と千草の行く末を見守っていただけると幸いです。
次回更新は4/17(金) 20時の予定です。




