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第5章 権限昇格 / 02

「とりあえず出たけど…どうするの?」


環のその言葉とともに、運用サポート部の出入口のドアは、ぱたんと控えめな音を立てて閉まった。

同時休憩として指定された条件に従い、早速席を立ったはいいものの、本当にそれだけだ。オフィスビルの何もない質素な廊下で、環と千草は目的も行く宛もなく、ただ立ち尽くしていた。

千草は「…そうですね」と言って、指を顎に添えながら周囲を見渡す。


「ここで休憩しましょう。この距離なら呼び出しにも対応できます」


千草が示したのは、廊下を少し進んだ突き当たりに設けられた窓際だった。


環と千草は、窓際まで歩み寄り、二人で横に並んで立つ。

ブラインドを上げると、窓の先には、会社の裏手にある少し開けた空間が見えた。

僅かばかり生い茂った雑草が、味気ないオフィスビルに生気を与えている。

午後の光が、線になって廊下に伸びる。環は、眩しさに一瞬目を細めた。


「……初めてですね。勤務中に、並んで何もしないのは」


千草が、窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。


「そういえば、そうだね…」


環は窓枠に手をついて、景色を眺めながら、ぼんやりと答えた。

そもそも社内でこうしてゆっくりと外を眺めること自体が初めてだ、とぼうっと思う。

それきり、しばらく沈黙が続く。


「…あっ」


しかし、数十秒ほど経ったところで、環が急に上擦った声を上げた。

窓ガラスに手のひらをつくと、目を見開いて顔を近づける。


「猫だ」


その情報に、千草もすぐに反応を示した。


「どこですか」


窓の外の景色いっぱいに、視線を巡らせる。

やがて、環の視線が釘付けになっている先で、ビルの陰からはみ出している、白く、丸い影を遠目に見つけた。


「…いました」


その影は、こちらにゆっくりと近づいて来ていた。

ふわふわの尻尾を揺らし、ぽてぽてと音がしそうな動きで足を進めていたが、やがて環たちの立つ窓のすぐ手前で歩みを止める。


真っ白い毛並みの、体の少し小さい猫だった。


環は、吸い寄せられるようにその猫の動きを目で追い続け、猫がすぐ目の前で立ち止まった後も凝視し続けていた。

その瞳は輝きに満ち、口元は自然に緩んでいる。


千草は、そんな環の様子を、横から瞬き一つせず見つめていた。


「表情が違いますね。その顔は初めて見ました」


いつも通り、業務報告のような口調で告げる。


「そうかな…」


環は、相変わらず猫から視線を外さないまま、気もそぞろな様子で答えた。


窓の下の猫は、しばらくの間、環と千草をじっと見上げていたが、不意に草むらの上でひっくり返った。

お腹を見せ、ごろごろと気持ちよさそうに目を細める。

その様子に、環の表情はますます和らぐ。頬が緩み、笑みが深くなる。


「ええ、力が抜けています」


千草は、環と猫、交互に忙しなく視線を移していた。


「……覚えておきます」


目を伏せて、独り言のように小さく呟く。

環は、完全に猫に意識を奪われていて、千草の声は耳に入っていないようだった。


しかし、しばらくすると、猫は何の前触れもなく立ち上がった。

伸びあがって欠伸をしたかと思うと、そのまま再びぽてぽてと来た道を引き返していく。

ビルの陰に、白い尻尾がふわりと消えていったところで、環は少し肩を落とした。


「行っちゃった…」


名残惜しむような声で、猫が立ち去った場所を見つめたまま、そう呟いた。


「普段から、この辺にいる子なのかな?また会えるかな…」


環は、願いを込めるように窓の向こうに問いかけた。

僅かに目を伏せて、先ほどの白猫の姿を思い返す。薄い微笑みが、再び顔に浮かんでいく。


「会えます」


環の問いに、千草が即座に答える。


「この時間に毎回来ているなら、習慣です」


千草は、先ほどまで猫のいた空間に、視線を落とした。

猫が寝転んでいた草むらは、何度も繰り返し押しつぶされたような跡が残っている。


「明日も5分、ここに来ましょう」


千草は環を振り返り、提案の形で、そう言い切った。


「…そうだね」


環は、少し満足そうな様子で、そう答えた。


環のその答えを聞いた千草は、ポケットからスマートフォンを取り出した。

そして数秒ほど、無言で画面を操作する。


「予定に入れました。これで忘れません」


その発言に、環はようやく窓から視線を外し、「えっ、スマホに予定入れちゃったの?」と驚嘆の声を上げ、目を丸くして千草を見た。


「もしかして千草くんって、どんなに小さな予定でも、全部スケジュール登録するタイプ?」


茶化すような口調で言い、にやっと笑う。

しかし千草は、至って真面目な口調で答えた。


「いいえ、必要なものだけを入れます。忘れると困るものだけです」


作業を終えた千草はスケジュールアプリを閉じると、同時に時間を確認する。

休憩時間の5分は、既に終わりを迎えていた。

手早くスマートフォンをポケットに戻すと、運用サポート部のオフィスに戻るべく、窓際に背を向ける。


「今回が例外です」


千草は廊下を歩きながら、上着の布越しにそっとスマートフォンに触れた。

次回更新は4/24(金) 20時の予定です。

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