第23章 ルートアクセス / 01
「…制作は、順調でしょうか」
公園で猫の写真撮影をした日から、一週間ほど経ったある日。
いつものように、駅までの帰り道を環と千草が二人で歩いていると、ふと、千草が思い出したようにそう呟いた。
環は一瞬きょとんとしたが、すぐに絵の進捗のことを聞かれていると気づいて、ふっと微笑みを作った。
「うん、大分進んできた。下描きはもう終わったよ」
そう返しつつも、実際のところ、環の作業ペースは昔に比べて著しく遅くなっていた。
数年間のブランクは、やはり大きい。
一週間以上、毎日キャンバスを前にして、木炭と筆を手にする感覚をようやく取り戻しつつあるところだった。
「途中の写真などはありますか」
だが、続けてその問いを投げかけられた瞬間、環の笑顔は急にこわばった。
おそるおそる、隣を歩く千草の顔を見上げる。
「え…っと、それは、描いてる絵の…ってこと?」
「はい。見せていただけますか」
何の躊躇いもなく、環と目を合わせて、いつもの調子で言う千草。
一方、環は戸惑いを隠しきれず、おろおろと視線を彷徨わせた。
「いや、でも…まだ未完成だし」
「描いている過程も見たいのですが」
やんわりと断りを入れてみるが、千草は全く譲る様子もなく、繰り返し主張した。
その目は相変わらず、はばかることなく、まっすぐに環を見つめている。
「………」
環は、しばらく無言で何か考え込む素振りをして、やがて路上でぴたりと足を止めた。
「あの…文人くん。本当に、描きかけでも興味ある?」
「はい」
即答。
環は、道の前方に視線を上げた。
いつもの分かれ道は、すぐ目前に迫っている。
「……じゃあ、今から描いてるところ、見に来る?」
ゆっくりと振り向きながら、ひどく緊張した声色で、環は問いかけた。
その途端、千草は、先ほどまでの毅然とした態度と打って変わって、突然黙り込み、動きを止めた。
「…環さん、絵はどちらで描かれていますか」
環の提案に肯定も否定もしないまま、どこか張り詰めた雰囲気で、千草はそう聞き返した。
「え?私の家だけど」
実にあっさりと、環は答えた。
千草は、動きを止めたまま、視線を僅かに横に逸らした。
「……問題がありませんか」
「何が?」
環は、心底不思議そうに、首を傾げた。
その何も分かっていない様子に、今度は千草の方が、深刻に考え込むように口を閉ざした。
数十秒間、何とも言えない沈黙が、二人の間に流れる。
いつまで経っても何の反応も示さない千草に、程なくして、環はしゅんと項垂れた。
「……あの、変なこと言ってごめんね。やっぱり――」
「いえ」
そしてとうとう、申し訳なさそうに、自身の申し出を撤回しようとする。
だが、その環の言葉を、千草は咄嗟に遮った。
「………ぜひ、見学させてください」
何かに降参した雰囲気。
◇◇◇
結局その後、環と千草は、分かれ道を環の自宅マンションへと向かう方面に、二人揃って進んだ。
同じ電車に乗り込み、住宅街を抜けると、すぐに見覚えのある五階建てマンションが見えてくる。
今日は、画材屋に行った時のような、大荷物は抱えていない。
にもかかわらず、マンションに入り、環の自室に繋がる共用廊下を歩く最中、千草の足取りはどんどんと重く慎重なものになっていった。
やがて辿り着いた角部屋の扉の前で、環は鞄の中から鍵を取り出した。
慣れた手つきで、鍵穴に差し込み、回す。
その様子を、千草は環の一歩後ろから、やけに背筋を伸ばした状態で見下ろしていた。
しばらくして、環の「どうぞ」という一言とともに、静かに扉は開けられた。
記憶に新しい玄関の光景が、視界に入る。
そして同時に、前回は存在しなかった、特有の――油絵具の匂いが、既にうっすらと漂ってきた。
「失礼します」
千草は、玄関で脱いだ靴を几帳面に揃えると、そっと室内の床に足を乗せた。
「散らかっててごめんね。こっちだよ」
先に奥のリビングに入っていた環が、開けたドアの隙間から顔を出し、千草を呼ぶ。
リビングまでの廊下を歩く途中、千草は、環が示す方向だけをまっすぐに見つめ、なるべく周囲に視線が及ばないようにしていた。
リビングに入ると、更に強い油絵具の匂いが広がった。
部屋の中央には、イーゼルが置かれ、そこにはキャンバスが乗せられている。
イーゼルの隣に並べられた小さな台には、使いかけの絵の具や筆、パレットが出しっぱなしの状態になっていた。
「そこ、適当に座っててね。コーヒーでいい?」
「はい、いただきます。ブラックで構いません」
環に促され、千草は、イーゼルのちょうど向かいにあるソファに腰をかけた。
その直後、パタ、パタ、とスリッパの音を響かせて、環がキッチンへと姿を消す。
「………」
千草は、環がコーヒーを淹れるのを待つ間、目の前にあるキャンバスをじっと眺めていた。
ここに来る前に聞かされたとおり、木炭での下描きを終え、その上に下地を塗り始めた辺りまで進んでいるようだ。
白猫の絵は、公園で撮った写真を、そのまま描いているわけではなかった。
その構図には、強烈な既視感がある。
少し殺風景な廊下、そして窓。その向こう側から、こちらを見上げる白猫。
――15時の窓際休憩の、風景。
「…ごめんね。まだ全然、絵って言えるような段階じゃなくて…」
絵の観察に集中していた千草に、いつの間にかキッチンから戻って来ていた環が、横からそう話しかけた。
環は、片手でソファの端に掴まりながら、ゆっくりと床にしゃがみ込んだ。
お盆に乗っていたコーヒーカップを二つ、ローテーブルの上に並べ終えると、千草の隣に自分も腰をかける。
そして、何度か体勢を整え直した後、カップの片方に手を伸ばした。
「……環さん」
ようやく落ち着いた様子の環に、千草は、ふと呼びかけた。
「あの余白は、意図的ですか」
そう言って、キャンバスの、とある箇所をすっと指差した。
猫の目線の先。窓の内側の床。そこに、奇妙な空間がある。
――人が一人、立っていてもおかしくはないような。
環は、千草の指し示した先に視線を移した。
ややあって、カップから口を離すと、「ああ、それ…」と切り出した。
「うん。私、余白のある絵も好きだし。わざと埋めてないの」
環の答えに、千草は、「…そうですか」と一言だけ返すと、自分の分のカップに口をつけた。
しばらくそのままコーヒーを飲みながら、絵をじっと見つめていたが、不意に再び口を開く。
「環さんは、余白を『欠け』として扱わないのですね。私は、余白を見ると、そこに何が入るのか考えてしまいますが」
千草は、絵から環の横顔に、視線を移した。
「…環さんらしいと思います」
目を伏せて、もう一口、コーヒーを飲む。
だがすぐに手に持ったカップを一旦下ろすと、「ですが、」と続けた。
「猫の視線が向いている先に、これから環さんが立つ可能性は、否定していません」
その言葉に、環は、押し黙った。
(これって、もしかして、遠回しに『描いて』って言われてる…?)
気を紛らわせるようにコーヒーを喉に流し込みながら、そんな推測が頭をよぎる。
千草は、正面に向き直り、またしても絵の観察に戻ってしまった。
環は、千草の横顔にさり気なく目線をやったが、いつも通り、その表情から思考は読み取れそうにない。
「あの…文人くん」
暫しの沈黙の後、環は、控えめに口を開いた。
「自分自身の絵を描くのって、すごく勇気がいることなんだよ。なんだか、ちょっと恥ずかしいし…」
所在なさげに、カップの縁を指でなぞりながら、俯き気味にそう呟く。
千草は、相変わらずキャンバスから目線を外さないまま、静かに答えた。
「…想像はできます。技術の問題ではなく、自分の存在を晒す覚悟が必要でしょう」
そこで一度言葉は途切れたが、僅かな間を置いて、そのまま続ける。
「ただ、環さんがご自身を『恥ずかしい』と思う理由を、私は理解したいと思っています」
千草は、はっきりと、環に顔を向けた。
柔らかなソファの上、油絵具の香りの中、二人の視線がぴったりと重なり合う。
「今、描きながらでも構いません。その『恥ずかしい』の正体を、教えていただけませんか」
次回更新は10/16(金) 20時の予定です。




