第22章 共有 / 02
しばらくして、猫は、何の前触れもなく、パッと環の膝から降りていった。
そのまま早足に去っていく猫を見送った後、環は改めて、カメラに残った画像データを確認した。
猫の写真は、全部で五枚。
今度こそ、もう十分に、良い写真を手に入れられたはずだ。
「ありがとう、文人くん」
環は、千草の手を借りて立ち上がると、預けていた杖を千草から受け取った。
杖を渡す際、千草は、支えが抜けきらないよう、最後まで僅かに力を残しつつ、手を離した。
無事に撮影を終えた環と千草は、一旦、公園の隅にあるベンチに足を向けた。
「なんか、ごめんね…。つい夢中になっちゃって…」
ベンチへ向かう途中、環は先ほどの自分の行動を振り返り、照れくさそうに謝罪した。
そして、気づけば大変なことになっていた、頭に乗った木の葉と、服についた土を、せっせと手で払う。
「謝る必要はありません」
千草はそう言いながら、ベンチに腰かけ、背もたれに浅く身体を預けた。
その隣に、環も、ゆっくりと腰を下ろす。
「……先ほどの写真」
ふと、千草がぽつりと口を開く。
「猫よりも、撮影していた環さんの方が印象に残っています」
千草は、ついさっきまで環が座り込んでいた、木陰近くの空間に視線を投げた。
「環さんは、好きなものの前だと、表情が変わります」
そう言うと、今度は、隣にいる環の方を振り向く。
「絵を描いている時も、ああいう表情をするのですか」
そして、目を合わせ、静かに問いかけた。
未だかつて、考えてもみなかったことを聞かれ、環は、一瞬言葉に詰まった。
「どうだろう…絵を描いている時の自分の顔なんて、見たことがないし…」
環は、「うーん」と唸りながら、かろうじて残っている、最後に絵を描いていた当時の記憶を探った。
「でも…確かに、さっきみたいに夢中になって、時間を忘れちゃうことはあったよ。そういう時、普段とちょっとは違う顔をしてるんじゃないかな…多分」
はっきりしない様子でそう答えながら、環は、照れ混じりに少し笑った。
その手の指先は、無意識に、スカートの端に払い残されていた細かい葉くずを弄っている。
千草は、「そうですか」と、静かに相槌を返した。
「環さんが時間を忘れている姿は、とても自然でした。無理をしていない顔でした」
千草は、再び木陰を見つめると、どこか眩しそうに目を細めた。
「私は、環さんがああいう顔で居られる時間を増やしたいと思っています。…そのために、私にできることがあるなら、遠慮なく言ってください」
そう語り終わると、千草はそっと、目を伏せた。
――唇が、緩やかに、弧を描いていく。
「……本日、支え役は楽しかったです」
実に満足そうに言う千草の横顔を、環は隣から、しばらく無言で見つめていた。
「……文人くん」
「はい、環さん」
不意にぽつりと名前を呼びかけられた千草は、すぐに返事をした。
だが、環は、それきり再び黙り込んでしまう。
「どうされましたか」
ことのほか沈黙は長引き、千草は、環の様子を窺うように声をかけた。
環は、意を決したように、「あのね、」と控えめに切り出した。
「私も、今日、文人くんと一緒に過ごせて、楽しかった……」
ぽろぽろと一語ずつ、こぼれ落ちるように、環の口から言葉が漏れる。
千草は、すぐには反応を示さなかった。
しかしやがて、ふっと息を吐くと、いつになくゆったりとした口調で話し出す。
「……ありがとうございます。私は、環さんが楽しいと思う時間に含まれている。それだけで、現時点では合格点です」
そう言った千草が振り向いた瞬間、傾き始めた日差しが逆光となって差し込み、その表情ははっきりと分からなかった。
環は、眩しさから、思わず顔を下に向けた。
その視線の先、足元の地面で、ベンチに座る二人の影が、既に長く伸び始めていた。
「……今日は、もう帰ろうか?」
環は、言葉少なに、それだけ尋ねた。
一緒に過ごした時間はごく短いが、不思議と足りないとは感じなかった。
「…そうですね。少し冷えてきましたし、今日はここまでにしましょう」
千草は、躊躇うことなく、ベンチから立ち上がった。
「今日は、写真も…環さんの表情も。どちらも、収穫でした」
続いて環が立ち上がったのも確かめると、公園の出口へ向かってゆっくりと歩き出す。
「絵の制作、楽しみにしています」
「……うん」
環は頷いた後、出口を抜ける直前、ほんの一瞬だけ、公園内を振り返った。
猫の居た木陰。芝生の上。座っていたベンチ。
順番に視線を流して、その景色を、パノラマのように視界に切り取った。
今日という日、写真には残せないものを、代わりに、自身の瞳に焼き付けるように。
次回更新は10/9(金) 20時の予定です。




