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隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第4編 混交
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40/43

第22章 共有 / 01

「文人くん、遅くなっちゃってごめんね」


待ち合わせ場所である、会社近くにある小さな公園。

ようやくその入口手前まで辿り着いた環は、既に公園内に立っていた千草に向かって、謝罪の言葉を投げかけた。

腕時計に視線を落とす。針は、約束していた14時を、ほんの数分過ぎてしまっている。


千草は、環の声に気づくと、さっと入口の方を振り向いた。

慌てて早足になる環に、千草は「問題ありません」と声をかけながら、自分からも近づいていく。


「今日は天気がいいです。条件は悪くなさそうですね」


公園入口前で環と合流すると、千草はふと空へ視線を投げた。

冬晴れの穏やかな日差しが、公園の木々を隅々まで照らしている。

今日は風もほとんど吹いておらず、気温は低いが、凍えるほどではない。


「白いのは、あちらの木陰に居るようです」


千草はそう言って、迷いなく、公園の隅の木陰の、ある一か所を指差した。

環を待っている間に、猫を探して、既に発見していたようだ。

環は、分かりやすく肩を落とし、「よかった、居てくれて」と安心したように溜息を吐いた。


「焦らずにやりましょう。逃げられても、また次があります」


気まぐれな猫が、どこかへ出かけてしまわないうちに――そんな考えからか、急いで鞄からカメラを取り出そうと苦戦する環を見て、千草はそっと声をかけた。


「環さんが納得できる一枚を、撮りましょう」


――こうして予定通り、油絵の題材となる、白猫の写真撮影は始まった。



◇◇◇



千草に案内され、環は、猫が居る木陰まで、音を立てないよう慎重に近づいていった。

そうっと、草の隙間を覗き込む。

すると、木の根元のすぐ傍で、見慣れた白い影が、ちらちらと動いているのを僅かに視界に捉えた。


「よ、よーし……」


環は、自分を奮い立たせると、杖を小脇に抱え込み、カメラを両手で握りしめた。

一歩、二歩、じりじりと、猫がフレームに収まる範囲まで、更に近づく。

しかしやはり、杖なしでは上手く歩行のバランスが取れなくなり、一歩踏み出す度に、環の足は危うげによろめいた。


「環さん、私が支えます。体重を少し預けてください」

「あっ…ありがとう…」


その様子を見ていた千草は、即座に環のすぐ後ろに回った。

不用意に触れないよう、支えるというよりは、壁になったような形だった。


千草に寄りかかり、ふらつきが無くなったことで、ようやくカメラのフレームも安定する。

猫が芝生の上でごろんと転がって、腹を見せる姿がレンズに映った。


「…今、光が良いです。毛並みの陰影がはっきり出ています」


雲が少し動いたようで、猫への日光の当たり方が変わる。

それを肉眼ではっきり捉えていた千草が、環の耳元で的確にそう助言した。

環は無言で意識を集中させたが、それがかえって焦りを生んだのか、再びフレームが少しぶれてしまう。


「焦らなくていいです。私は動きません」


千草がそう静かに声をかけた、その直後だった。

猫の顔が、カメラの方に向いた。


――パシャッ


レンズ越しに猫と目が合った瞬間、環は、反射的にシャッターを切った。

まずは、一枚。


「……あっ。いい感じかも」


環はすぐに、カメラの背面モニターで撮影した写真を見返すと、少し弾んだ声で言った。

ぶれていない。光も十分。

ふっくらしたお腹を空に向け、気持ちよさそうに日向ぼっこをしながらこちらを見つめる白猫が、綺麗に収まっていた。

環は振り返って、モニターを千草にも見せ、「どうかな」と感想を求めた。


「…良いですね。毛並みの白が飛んでいない。光の当たり方も自然です」


環の肩越しに画面を見下ろして、千草は、目を細めた。


「……もう何枚か、別の角度の写真が欲しいなあ」


千草の反応に、環はしばらく満足そうに画面を眺めていたが、不意にカメラを下ろした。

背伸びをして草の向こうを覗き込みながら、ぽつりと呟く。


「では、あちらの木陰から狙うのがいいかもしれません」


千草は、少し離れた場所にある、一本の木を指差した。

その木は、猫を挟んで、ちょうど向かいの位置に立っていた。


環と千草は、猫に気づかれないよう、わざと遠回りをして、その木の後ろに回り込んだ。

再び、環がカメラを構え、千草が支える。


「今度は、立ち上がる瞬間を狙えそうです。合図をしますので、構えてください」


身体を地面から浮き上がらせ、伸びを始めた猫を見て、千草は囁くように声をかけた。

環は、息をひそめ、微動だにせずカメラを向けた。

やがて、葉擦れの音すら意識から遠ざかっていき、頭の奥がシンと静まりかえる。


「……今です」


――パシャッ、パシャッ


千草の静かな合図に合わせ、再びシャッターを切る。

今度は、二枚。


環は、またすぐに背面モニターを操作した。

そして、今撮った写真が表示されるなり、途端に顔をにやけさせて、「かわいい…」と呟いた。

一枚目は、目を細めて、思い切り身体を伸ばしている瞬間。

二枚目は、その後に立ち上がろうとする、まさにその瞬間が、見事に切り取られていた。

それは、猫のか細く柔らかい毛先の一本一本がはっきりと見えるほどに、光に満ちた写真だった。


「……良いです。一枚目は無防備さが、二枚目は立ち上がろうとする意志が伝わってきます」


横で画面を覗き込んでいた千草も、環に同調するように、そう感想を漏らす。


「まだ撮れますが、どうしますか」


写真の確認を終えた環は、カメラを下ろし、杖の先を地面につき直した。

そんな環を見て、千草は一度支えるのをやめて一歩下がると、そう問いかけた。


「……うーん……」


環は、深く考え込んだ。

今撮れた三枚は、どれも白猫の魅力を存分に映し出した、とても良い写真だ。

これだけでも、絵を描くための資料としては、もう十分だろう。

――しかし。


「文人くん。悪いんだけど、少しの間だけ、これ、預かってもらえる?」


環は、俯いていた顔を上げると、その手に持っていた杖をそっと千草に差し出した。

千草は一瞬、躊躇ったように動きを止めたが、やがて無言で、言われた通りに杖を受け取った。


そして、杖が確実に千草の手に渡った、その瞬間――突然、環の頭が、千草の視界から消えた。


千草の目が、驚きに見開かれる。


「……環さん」


千草が名前を呼びかける先で、環は、カメラを手に抱えたまま、芝生で腹ばいになっていた。

そのまま、猫に向かって、ゆっくりと匍匐前進していく。

――猫の、目線で。


「無理はしないでください」


注意は促すが、制止ではない。

千草は、杖をしっかりと握りしめたまま、すぐに環の周囲の安全確認をした。

地面の傾斜。障害物の有無。環の身体が、無理な体勢になっていないか。


一方で環は、周囲の状況など全く意識に入っておらず、前方の木陰を目指して、ただ進み続けていた。

その姿はまるで、本当に猫の世界に入り込もうとしているかのようだった。


「……かわいいねえ」


猫が、ほんのすぐ目の前まで近づいたところで、環はシャッターボタンに指をかけた。

横たわる環を、不思議そうにじっと見つめている猫。

環は、一層姿勢を低くして、そんな猫と完全に目線を合わせた。


「………にゃぁー………」


鳴き真似。


「にゃあ」


猫が、鳴いた。


――パシャッ


シャッター音が、響いた。


猫は、その音に一瞬だけ首を傾げると、環のすぐ傍まで歩み寄って来た。

警戒はなく、匂いを確かめるように、鼻先を近づけてくる。

環は、ゆっくりと身体を起こし、芝生の上で、膝を折り曲げぺったりと座り込んだ。

その様子を、千草は立ったまま、静かに見下ろしていた。


「懐かれていますね」


そう、千草がぽつりと言った直後、不意に、白猫はふわりと前足を動かした。

そのまま、座っていた環の膝の上に乗り、環の顔を覗き込む。


「……もう一枚、撮れそうです」


その千草の言葉に、環ははっとして、足元に置いていたカメラを再び手に取った。

至近距離でこちらを見上げる猫の顔の前に、レンズを掲げ――すぐにパシャッと、シャッターを切った。


「……にゃあ~」


猫が、また鳴いた。


環は、急いでモニターに撮影した写真を表示した。

猫と同じ目線で撮った、自然体の姿。そして、環を間近から見上げている顔。

間違いなく、もう二枚、増えている。


「文人くん、見て」


環は、いつになく弾んだ早口で、そう千草に声をかけた。

そして、持っていたカメラを、勢いよく差し出す。

座り込んだまま、いつの間にか頭が木の葉だらけになっているのも、全く気に留めようともせず。


「すっごくかわいい!ねえ、良い写真撮れたよ」


きらきらした木漏れ日の下、満面の笑みが溢れた。


「……本当に良い写真です。猫が、環さんを見上げています」


差し出されたカメラを受け取って、猫の写真に視線を落としながら、千草は言う。


「絵にするなら、猫だけではなく……」


写真の中の猫が、見上げていた先。

そこにあった光景を確認するかのように、千草は、現実の環に視線を移した。

頬が緩み、瞳が柔らかく細められ、全身から『好き』が溢れ出ているかのような姿。


「環さん自身も、入れるべきかもしれません」


千草は穏やかにそう言って、その場にしゃがみ込んだ。

環の髪に手を伸ばし、その上に乗っていた木の葉を、一枚、そっと指で摘まむ。


「……頭、森になっています」

次回更新は10/2(金) 20時の予定です。

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