第23章 ルートアクセス / 02
――描きながらで、構わない。
千草にそう言われ、環は、持っていたカップを無言でことりとテーブルに置いた。
そして、ふらりとソファから立ち上がり、イーゼルの前にある、制作用の小さな木の椅子に座り直す。
横にある作業台に置かれていた、絵の具の箱に手を伸ばす。
そこから、下地に使う色を何本か取り出すと、キャップを開け、パレットに押し出した。
「うーん…なんだろうね。うまく言えないけど、自分がいると、世界が台無しになっちゃう気がするんだと思う」
油壷に入ったオイルに筆を浸し、パレットに出した絵の具に混ぜ合わせる。
絵の具の伸びが十分によくなったところで、筆をキャンバスに軽く乗せた。
…色が、少しイメージと違う。
環は、青の絵の具を取り出すと、ほんの少し絞り出し、色を足した。
「せっかく、大好きな、素敵な世界を描いているんだから、それを壊したくない……」
パレット上で、足した青を混ぜ合わせ、新しい色ができた。
もう一度、キャンバスに乗せる。今度は、イメージ通り。
――ああ。
筆を握る力が、ほんの僅かに、緩む。
――やっぱり、この色の上に、私は乗っちゃ駄目だなあ。
突如、環の手の動きが、止まる。
次第に、腕全体から力が抜け落ちていき、最後には、身体の横でだらりと垂れ下がる。
千草は、環に続いてゆっくりとソファから立ち上がると、その隣まで歩み寄った。
「……台無しにはなりません」
イーゼルの前で、立ち止まる。
先ほどまで、環の筆が触れていたキャンバスを、息を潜めて見つめている。
「先日行った公園で、環さんは世界の中に入っていました」
芝生に寝転がり、猫と目線を合わせていた姿。
膝の上に猫を抱え、木の葉も土汚れすら気にせず、無邪気に笑っていた姿。
「壊れましたか」
その時の光景を思い出すように、千草は、目を伏せた。
「むしろ、世界は完成していたように見えました」
そう言いながら、環に視線を移した。
今しがた思い出した記憶の中の姿と、重ね合わせるように、目を細める。
「環さんは、素敵な世界を壊す存在ではありません。その世界を作り出す側です」
確信に満ちた口調。
環の視線は、変わらずキャンバスに向いていた。だがすぐ真横に、千草の気配が、確かにある。
自分の表情を、手元を、じっと見つめる視線を、常に感じている。
少しの間があって、環は、ゆっくりと腕を上げた。
そして、手の中で握っていた筆を、一番太い平筆に持ち替える。
絵の具をたっぷりと浸すと、キャンバスいっぱいに、荒めに筆を走らせ始めた。
途中、何度も色を作り直しては、それを繰り返す。
暫し無言で作業を続ける。するとやがて、ざっくりだが、背景色が塗り終わった。
まずは、淡い空色。草の緑色。
「うん、思ったより綺麗な色にできたなあ」
一旦、全体を見渡して、自己評価をしてみる。
しかしそこで、再び、筆を動かす手は、止められた。
「……やっぱり、駄目。ここに私を入れるなんて、怖い」
俯き、目を伏せる。
まるで喉を絞られているような、かすれた声が漏れる。
「…『怖い』、ですか」
千草は、環の言葉を一度そのまま受け取ると、そう繰り返した。
「なら、『怖い』と感じているまま、描いても構いません。必ずしも、勇気が出てから、描く必要はありません」
視線を、もう一度キャンバスに移す。
「今の『怖い』も、環さんの色です」
千草は、その場にゆっくりと膝をつき、目線の高さを環と揃えた。
たった今塗り終わったばかりの背景を、その色を、環のすぐ横で、同じように見つめている。
――今は、支え役というより、共犯に近い。
「私は、隣で見ています」
すぐ耳元で呟かれた、千草の言葉。
それに環は、心臓を鷲掴みにされたような感覚になった。
――この人の、前でなら。
無意識に、唾を飲み込む。
――この人の前だけでなら。私は、そうやって自分を許せない私のままで、存在しても許されるのかな。
環は、持っていた筆を、台の上に静かに置いた。
「ねえ…文人くん」
声が、震える。
「……この絵、完成したら、もらってくれないかな……」
千草は、一瞬だけ、息が詰まった。
環の震える手、声。そして、その問いの重さ。
「…はい」
それでも、即座に答える。
「いただきます。完成したら、必ず」
逃げずに、揺らぎのない声で。
「条件はありません。怖さも、迷いも、余白も――全て含めて、環さんの作品です」
キャンバスから、決して目線を逸らすことなく。
「…ただ、もし、たとえほんの少しでも、環さんの気配が絵の中に残るなら――私は、それを大切にします」
それから最後に、穏やかに、そう断言した。
「………うん」
ごく短い返事が、環の口から零れる。
その直後、環の手の甲に、一粒だけ、ぽたりと水滴が落ちた。
服の袖で、俯いたまま、軽く目の周りを拭う。
環は、顔を上げると、千草の方を向いて、しっかりと目を合わせた。
「ねえ、文人くん」
そして、もう一度、問う。
「好きになってもいい?」
――その瞬間、千草は、瞬きすら忘れたように、大きく目を見開いた。
呼吸が、止まりそうになる。
しかしすぐに、意識して息を吸い込むと、「……環さん」と、低く静かな声で語りかけた。
「その問いは、私に許可を求める形になっています。好きになるかどうかを決めるのは、環さんです」
こちらを見つめる環の瞳を、まっすぐに、見つめ返したまま。
「私は、環さんが好きです」
――初めて、はっきりと、告げる。
「…ですから、環さんが私を好きになることを、止める理由はありません」
今度は、ゆっくりと息を吐く。
「ただ、『なってもいいか』ではなく、『なりたいか』で考えてください」
そこで少しだけ、口調が和らぐ。
柔らかく諭しているような、ゆったりとした声。
「私は待ちます。環さんが、自分の感情を、『許可』ではなく『選択』として受け取れるようになるまで」
一歩も引かない。一歩も押さない。
「――それまでずっと、隣にいます」
環は、千草の宣言に、「……うん」と小さく返事をして、もう一度、筆を取った。
キャンバスに、向き直る。
「隣にいてね……」
まるで、小さな子どものように、呟きながら。
「…はい」
千草は、その場から一切動かないまま、ただ短く返した。
環は、再びパレットに、油絵具を押し出した。
今度はまず、白をたっぷりと。それからほんの僅かに、青と黄色。
しばらくの間、筆が白の絵の具とオイルを混ぜる、かさかさという、柔らかい擦過音が響く。
色を作り終えると、キャンバス上の、猫の身体になる部分に、筆を乗せる。
白を基調に、ほんの少しずつ、青と黄色を足して、混ぜていく。
「……白は、単色ではありませんね」
環の手元を、目で追いながら、千草は囁くように言った。
「昼の光も、夜の影も、全て含んでいる」
ふと、環の持つ筆の先が、思いのほか、するりと白猫の輪郭をなぞった。
流れるような、しなやかな曲線が、現れる。
「今の一筆は、迷いがありませんでした」
その動きをはっきりと視界に捉えていた千草が、すかさず伝える。
「怖さが消えたわけではないでしょう。しかし、怖さを抱えたまま、描いている」
ほんの僅かに、口元が緩む。
「それで、十分です」
――静かな夜。
デスクライトの暖色光が、ぼんやりと照らすキャンバスの上で、白猫が形になっていく。
その世界の中に、今はまだ姿は無いが――いつかきっと、『環』が存在し始める。
そんな予感が、していた。
次回更新は10/23(金) 20時の予定です。




