第21章 アクセス許可 / 02
環が探していた画材屋は、A駅からは三度も電車を乗り換えた先にあり、決して近いとは言えない距離だった。
電車を降りた後も、それなりに歩かなくてはならない。
店に繋がる一つ手前の大通りまで辿り着いた時には、環の息は、既に少し上がり始めていた。
「少し休みますか」
段々と歩行速度が落ちていく環の様子を見て、千草は、一度立ち止まってそう声をかけた。
しかし環は、「ううん。あともう少しだから、このまま歩く」と、少しくたびれた笑顔で返した。
大通りから角を曲がるとすぐ、古い雑居ビルや個人店舗が立ち並ぶ、狭い道に出る。
その中の、一際古びた雑居ビル――その一階に、目的の画材屋はあった。
環は、店のすぐ手前まで歩み寄ると、その外観を興味深そうに眺めた。
ガラス戸越しに、細々とした小物が並ぶ商品棚が、うっすらと見える。
「……専門店ですね」
一方、千草は、環と同じように店を眺めながら、少し不思議そうに首を傾げ、そう呟いた。
扉を開けると、独特の匂いが、その場に一気に広がった。
絵の具、油、紙、木……全てが混ざりあった、少し乾いたような、古臭いような匂い。
古い建物らしく、入口の段差は大きい。
千草は、慎重に扉を押さえながら、環に「足元、気を付けてください」と注意を促した。
店内に入ると、外からはよく分からなかった、商品棚の様子がはっきり見えた。
天井に届きそうなほど背の高い棚に、びっしりと収められた、絵の具のチューブ。筆。オイルの瓶。
奥の壁際には、キャンバスやイーゼルなど、比較的大きな商品が並べられているようだ。
周囲を見回しても、他の客はいない。
店内音楽も一切かけられておらず、ただただ深く、静謐な世界がそこには広がっている。
「まずは、何を見ますか」
じっくりと店内を見回した後、千草は環の方を振り向くと、そう尋ねた。
「一通り揃え直さないとなんだけど、まずは絵の具にしようかな」
環は、入口付近にあったカゴを持つと、絵の具の棚に歩み寄った。
ばら売りの絵の具が一種類ずつ収められた棚の手前の、平台の上に、セット売りの箱が乗っている。
環はその中から、12色セットになった絵の具を見つけると、迷いなくそれを選び、カゴに入れた。
「他にもたくさん色がありますが、それだけでいいのですか」
続いて、隣に積んであった、木製パレットを手に取っていた環に向かって、千草は更に質問する。
「基本色があれば、大体の色は作れるから、大丈夫だよ。……あ、でも、白はもっと必要かも……」
説明しながら、ふと思い至った環は、目の前の棚を見上げた。
しばらくの間、白色を探して視線を巡らせ、やがて、最上段でそれを見つける。
「取りましょうか」
環の視線が、棚のある一点に固定されたことに気づくと、千草はそう申し出た。
「ありがとう。じゃあ、あの一番端のものを、三本お願いできる?」
環はそう言って、自身が視線をやっていた先を、控えめに指で示した。
千草はすぐに「承知しました」と頷き、最上段の一番端に収められていた白の絵の具に向かって手を伸ばした。
棚の背は本当に高く、男性の千草でも、つま先立ちで思い切り腕を伸ばさなければ届かないほどだった。
チューブの先を指で引っかけるようにして、どうにか三本、引きずり出す。
「三本も必要なのですね。サイズも他のものより大きいです」
千草は、取り出した絵の具のチューブを環に渡しながら、まじまじとそれを観察した。
「うん、白は一番たくさん使うの。他の色を作ったり、アクセントにしたり…」
環は、絵の具を千草から受け取ると、お礼代わりとばかりに解説を始めた。
だが最後に少し間を置くと、「それにね、」と続けて、目を伏せた。
「今回の絵、あの白猫を描いてみようと思って」
―――15時、窓際の白猫。
「………あの猫を」
その言葉に、千草は、ぴくりと反応を示した。
そして、環と同じように目を伏せると、少し考え込むような素振りを見せた。
「……あの毛並みは、白だけでは足りなさそうです」
千草は、棚に入ったおびただしい種類の色の絵の具を、再び見上げた。
「影の部分は、少し青みがかっていました」
「日差しが強い日は、黄色が混ざって見えることもあります」
記憶の中の光景と、目の前の絵の具の色を照らし合わせるように、淡々と述べていく。
環は、その千草の台詞に、大きく目を見開いた。
「……すごい。文人くんって、観察力があるんだね。そういう観察力が、絵を描く時にはすごく大事になるんだよ」
そう、素直に驚き、心からの称賛を贈る。
千草は、数回瞬きを繰り返した後、「観察は、仕事上の習慣です」と呟いて、視線を床に落とした。
「次は、オイルを見ようかな」
必要な絵の具を全て揃え終わった環は、次に、オイル類の棚に向かって、ゆっくりと移動を始めた。
絵の具とは異なり、ほとんど同じような見た目の、少し黄ばんだ半透明のオイル。
大小様々な瓶に入れられたそれらは、どれも日常では馴染みのない品名がラベルに印字されている。
「随分、種類が多いですね。違いはなんですか」
その内の一本を手に取って、成分表示を見ながら、千草はまたしても環に問いかけた。
環は思わず、目の前の瓶に伸ばそうとしていた手を止めた。
そして、ちらりと、隣に立つ千草を横目に見る。
――今日はなんだか、やけに質問が多い。
「…ごめん。私、そんなに本格的にやっていた方じゃないから、ペインティングオイルくらいしか使ったことないの。油絵のオイルって、目的によって、本当はものすごく細かく種類があるんだけど…」
環は、少し困惑しつつもそう答えた。
そして、「調合溶き油って言ってね、これ一本だけでも十分描けるんだよ」と説明を加えながら、ペインティングオイルを一本、手に取った。
千草は、特に不満を感じる様子も無く、「そうなのですね」と環の手の中の瓶をじっと眺めた。
ペインティングオイルの他に、近くにあった油壷とブラシクリーナーをカゴに入れたところで、カゴは一気にずっしりと重くなった。
カゴの持ち手が、環の腕にぎりぎりと食い込んで、痛みが生じ始める。
「そろそろ持ちましょうか」
「あ…ありがとう…」
カゴの重さの変化に気づいた千草は、環が礼を言い切る前に、自然にその持ち手に手をかけた。
「…油と瓶は、意外と重いですね」
カゴを受け取った瞬間、その重さを実感した千草は、感心したようにぽつりと呟いた。
腕の痛みと重さから解放された環は、少し軽い足取りで、次に筆の置いてある棚へ向かった。
棚の中の透明なプラスチック製の筆立てには、あらゆる材質や太さの筆が、大量に入っている。
環は、その内の細筆のサンプルを一本、すっと手に取った。
手のひらをキャンバス代わりに描く動作をして、感触を確かめる。似たタイプの他の筆も何本か取って、見比べてみる。
――筆は、描き心地と、作品の出来栄えに直結する。
筆を選んでいる間、環の眼差しは、周囲を置き去りにしそうなほど、鋭く真剣だった。
その環の表情の変化を、千草は横から、瞬きもせずに見つめていた。
先ほどまでの柔らかかった表情とも、仕事中の真面目で引き締まった表情とも、違う。
――これが、本来の顔か。
「うーん……。よし、これにしようかな」
しかしやがて、ここに来てから最も長い時間、一言も発さず悩んだ後、ようやく決まったらしい。
最終的に手元に残った、少し柔らかめで太さの異なる筆を二本、千草に見せる。
「あの子の毛並みに、少し似てると思わない?」
そう、うっすらと微笑んで、その筆先をふわふわと指で触る。
「…筆を、『毛並みに似ている』と感じて選ぶのですね。観察だけではなく、触覚も基準になると」
環の指が筆先を撫でる様子を眺めながら、千草は言う。
「理屈だけでは、描けませんね」
千草は、環が選んだ筆を受け取ると、持っていたカゴに更に入れた。
気づけば、カゴの中身は、選んだ画材でほとんど埋まってしまっていた。
「他に必要なものはありませんか」
カゴを一度、持ち直しながら、千草は確認するように尋ねた。
「あとは…キャンバスだね」
キャンバス売り場は、店の最奥の壁際にあるようだった。
迷路のような棚の間を通り抜け、白い生地の張られたキャンバスが、大量に平積みされた場所に辿り着く。
環は、重ねられていたキャンバスの端を、何枚か手でそっと持ち上げた。
「Fの8号……ううん、6号くらいがちょうどいいかな」
その環の呟きに、少し離れたところでキャンバスの山を見ていた千草が、「これですか」と声をかけた。
そして、目の前のキャンバスを一枚持ち上げると、裏返して環へ見せた。
その木枠の端には、小さく『F6』と書かれたラベルが貼られている。
環は、千草の方へ歩み寄ると、間近でそのキャンバスをじっと観察した。
「……うん、これだなあ。やっぱり、あの子に似合ってるサイズだと思う。それに、完成したら棚の上に飾りたいし…」
環は、木枠を指先でそっと触れながら、口元を緩ませた。
環の言葉に、千草も「…確かに」と同意を示す。ほんの僅か、目尻が和らぐ。
「あの猫を描くなら、このくらいのサイズの方が空気感が出そうです」
千草は、持ち上げたF6のキャンバスを、カゴを持つ手とは逆の腕で抱え込んだ。
ここでふと、環は、店内をぐるりと見渡した。売り場を一つずつ確かめながら、視線を滑らせていく。
「これくらいで、とりあえず大丈夫かなぁ…。イーゼルはゆかりが貸してくれるし、筆も結構もらえたし…」
口元に指を添えながら、ぶつぶつと独り言を呟く。
不足しているものは、無いか――環は、真剣な顔で考え込んだ。
しかし千草は、あっさりと言い放った。
「もし描き始めて足りないものが出ても、また来ればいいです」
その言葉に、環はぴたりと独り言を止め、顔を上げた。
「今日は、第一回目ですから」
当たり前のような顔をして告げる千草に、環は、暫し言葉を失った。
「……そう、だね。もしかしたら、またお願いする…かも」
実際のところ、道具は、今日選んだもので既に大半は揃っている。
ここまでの経路ももう覚えてしまったため、次に来るときは、一人でも問題はない。
しかしそれでも――あえて、また、彼と一緒に来てみたい。
何故か自然にそんな想いがこみ上げて、環は気づいたら、そう答えていた。
「はい。その際は、ぜひ」
環の返答に、千草は、うっすらと口角を上げた。
買うべきものは、今日のところはもう、全て選び切った。
それを理解した千草は、レジの方へくるりと向きを変えると、無言で足を踏み出した。
次回更新は9/19(土) 20時の予定です。




