第21章 アクセス許可 / 01
ゆかりと会った休日から、瞬く間に時は巡り、また次の休日がやってきた。
環は朝から、自室のベッドの上で、折り曲げた膝を抱え込むようにして座り、スマートフォンの画面をじっと睨みつけていた。
しばらくそうしていると、不意に、以前休暇を取った日の朝を思い出す。
あの時も、確か似たような状況でスマートフォンを見つめていた――しかし、唯一違うのは、そのディスプレイに映し出されている画面。
滅多に使うことのない、個人用のメッセージアプリ。
千草が、例によって「試験実施にあたり、仕事用とは別の連絡手段が必要」と主張したことから、少し前に連絡先を交換したものだった。
「………」
環はおもむろに、千草宛てのトーク画面を開いた。
そこには、最初に送受信の確認をするために行った、軽いやりとりだけが残っている。
千草との連絡など、普段から仕事で頻繁に行っている。
にもかかわらず、媒体が違うだけで、宛先に表示された『千草 文人』の名前まで、何故か別人のものに思えてしまう。
どこか張り詰めた気持ちのまま、環は、送信文の作成を始めた。
忙しなく指を動かし、文字を打ち込んでは、消して、また打つ。
それを10分以上は繰り返し、ようやく完成した文章。
『おはよう。お休みに突然ごめんなさい。実は今日、買いたいものがあるんだけど、私一人だと少し不安で…。急ですが、もしよければ、買い物に付き合ってくれませんか?』
環はぎゅっと目を瞑ると、意を決して、送信ボタンに軽く触れた。
おそるおそる目を開けると、作成した文章は既に送信済みに変わり、トーク画面上に表示されていた。
スマートフォンを握りしめて、そのまま画面を眺め続ける。
少しして送信文の横に既読の文字が現れ、一瞬、どきりと心臓が跳ねた。
返信を待つ、一秒一秒が、妙に長く感じる。
(……大丈夫、だったかな。やっぱり迷惑だったんじゃ――)
時間の経過とともに、じわじわと、思考に暗い影が落ちていく。
しかし、既読がついてから、ほんの1分後のこと。
『おはようございます。問題ありません。今日は特に予定はありませんので、同行します。時間と場所を教えてください』
返ってきたのは、快諾のメッセージだった。
その文面を見て、環の全身から、急激に力が抜け落ちる。
膝を伸ばし、抱えていた足をゆったりとくつろげた。
そして大きく深呼吸した後、環は、今度は落ち着いて、更に返信の文章を打ち込んだ。
『ありがとう、すごく助かります。場所はA駅、時間は13時半で大丈夫ですか?』
作成後すぐに、再び送信ボタンを押す。
すると今度は、僅か30秒足らずで、千草からの返信が届いた。
『承知しました。13時半に、A駅に向かいます』
そこでやりとりを終え、環は、そっとスマートフォンをベッド脇に置いた。
壁時計に目を向ける。現在、9時15分。実際に千草と会うまでには、まだ4時間以上も残っている。
しかし、その胸の中は、既に大きな達成感のようなもので満たされていた。
◇◇◇
――A駅、改札口前。
環は、コンコースの壁際に設置されたベンチの端に座って、千草の到着を待っていた。
人混みで移動が遅くなることを懸念し、時間に余裕を持って家を出たところ、想定よりずっと早くここに着いてしまったのだ。
「お疲れさまです。予定より早いですね」
しばらくすると、約束の5分ほど前になって、駅の入口方面の階段から、千草が姿を見せた。
人の往来を掻き分けながら、環の居る方へ近づいてくる。
「あ、文人くん」
待っている間、暇潰しにスマートフォンを操作していた環は、千草に声をかけられて、さっと顔を上げた。
ところが、環の座るベンチのすぐ手前まで辿り着いたところで、千草は、急にぴたりと立ち止まった。
そのまま微動だにせず、環に向かって、じっと視線を送り始める。
「……ど、どうしたの?」
数十秒間、無言で穴が開きそうなほど見つめられて、いたたまれなくなった環は、思わずそう問いかけた。
「普段と印象が違います」
環は一瞬、千草の言葉の意味が分からなかった。
しかし一拍遅れて、「ああ…」と何か腑に落ちたような声を上げる。
「そういえば、こうして休日に私服で会うの、初めてだったっけ?」
「いえ、私服姿は以前に一度、拝見しましたが。その時とも、印象が違います」
「…………そ、そう?」
環は、微かに頬を赤くして、はぐらかすように言った。
そして、自身の姿に、さりげなく視線を落とす。
薄いブルーのセーター、オフホワイトのロングスカート。いつもの自分なら選ばないであろう、全体的に淡い色調の、カジュアルなデザイン。
ゆかりに「せめて服くらい、ちゃんと選んで行きなさい」と言われて、この日のために新調したものだったが――まさか、正面切って指摘されるとは、思っていなかった。
話の流れで、環は自然と、千草の服装にも興味を惹かれた。
再び視線を、目の前に戻す。
グレーのニット、黒のスラックス。靴は飾り気のない革のスニーカーで、上着もやはり、暗い色。
柄物は、一つも身に着けていない。
「文人くんは、なんというか……私服でも、やっぱり文人くんだよね」
そう感想を返しながら、改めてしげしげと、千草の頭からつま先まで、順番に視線を動かす。
環の方が、千草の私服姿を見るのは、本当に初めてだった。それなのに、やはり、全く違和感がない。
「はい。私は変わりません」
至って真面目な顔でそう返す千草に、環は、思わずくすっと笑いをこぼした。
「…うん、そうだよね。ちょっと安心する」
朗らかにそう言って、にっこりと微笑む。
千草は、「それはよかったです」と言って、ようやく僅かに、環から視線を逸らした。
「移動は問題ありませんでしたか」
そう尋ねながら、千草は一旦、環の隣に腰をかけた。
「うん、自宅から一番近い駅だし、いつも来てるから。今日は付き合ってくれて、ありがとう」
「いえ、こちらこそ声をかけていただき、ありがとうございます」
目線も合わせず、当然のように礼を言い返す千草に、環は、目を丸くした。
「…今日は、何を買いますか。重いものなら私が持ちますが」
千草は、環に顔を向けると、改まったように問いかけた。
今日の本題。半ば呆然としていた環ははっとして、少しまごつきながら再びスマートフォンを取り出した。
「実はね…油絵の道具が欲しくて。画材屋さんに行きたいの」
答えながら、地図アプリを開き、事前に調べておいた目的地――画材屋までのルートを表示する。
千草は、環のスマートフォンを覗き込みながら、意外そうに少し目を見開いた。
「油絵、ですか。確かに以前、絵が好きだと言っていましたね」
「うん。……あのね、前に私に会うためにうちの会社まで来た、出版社の人、覚えてる?」
環は、そこでスマートフォンを操作していた手を止め、声を落とした。
千草は一瞬黙り込んで、記憶を辿った後、「……はい」と静かに頷いた。
「私、絵は好きなんだけど…就職してからずっと、描くことをやめてたの。でも、あの話に答える前に、もう一度だけ、自分で絵を描いてみようと思って」
以前、ゆかりに対してそうしていたように、環は再びその決意を口にした。
だがその声色に、今はもう迷いは全く無く、静かで、落ち着いている。
「……自分で『やりたい』と思って再開したものなら、それだけで十分に価値があります」
環の言葉を聞き終えた千草は、ベンチから立ち上がった。
「しかし確かに、一人では大変かもしれません。今日は、荷物運搬及び移動補助です」
そして、再び、環の目の前に立つ。
環は、千草の顔を見上げた。
「環さんの世界を、見せてください」
――その一瞬、千草の顔には、ほんの僅かに、笑みが浮かんだように見えた。
千草は何も言わず、環が立ち上がりやすいよう、そっと手を差し伸べた。
「私の世界なんて、そんな…期待に応えられるか、分からないけど…」
環は、自信がなさそうに目を伏せながら、千草の手を取り、ベンチから立ち上がった。
袖の下で、落ち着かない様子で、指先が動いている。
「期待はしていません」
千草は、存外ぴしゃりと言い放った。
その瞬間、環の顔には、少し歪んだ苦笑いが浮かんだ。
「……正確には、『成果』には期待していません」
しかし、その環の表情を見て、千草は即座に言い改めた。
「環さんが何を選び、何を好きで、何に迷うのか。そこに興味があります」
環の瞳をまっすぐに見つめて、告げる。
環は、そんな千草と顔を見合わせながら、驚きに言葉を失っていた。
並外れて直感に優れた親友の、自信に満ちた笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
―――彼が、本当に、興味があるのは………
「解説をお願いします。素人でも分かるように、丁寧に」
改札前の人混みが、ほんの少し散ったタイミングを見計らい、千草は、ゆっくりと歩き出した。
その後ろで、環は、こっそりと微笑みを浮かべながら答えた。
「……分かった。なるべく色々話しながら、選ぶね」
画材屋の方面へ向かう電車の発車時刻まで、あと数分。
環と千草は、新たな世界の入口へ踏み込むように、するりと改札を抜けていった。
次回更新は9/18(金) 20時の予定です。




