第20章 バリデーション
「えっ、美術評論雑誌の寄稿オファー!?」
よく通る、張りの良い声が、驚嘆に裏返って、勢いよく喉から飛び出す。
思いのほか店内に響いてしまった、その声の主――ゆかりは、持っていたコーヒーカップを口元から離すと、慌てたように周囲に目線を配った。
休日の昼下がり。以前、環とゆかりが、久々の再会を果たした際と同じカフェ。
あれから数週間が経った今日、二人はあの日と同じように、再び店の一席で向かい合っていた。
だが今回は、ただ他愛無い雑談を楽しむためだけに、ここに来たわけではない。
環は、「…うん」と頷いて、鞄から数枚の書類を取り出した。
「もう、一か月以上前になるかな……出版会社の人が、何の連絡も無しにいきなり会社まで来て、これを置いていってね」
そう説明しながら、取り出した書類を、テーブルの上に並べていく。
『新規企画特集』『AIと美術』――紙面を踊るその字面が目に入った瞬間、いつかの会議室での、小池の異様な熱弁ぶりが脳裏に蘇る。
受け取った当時、真新しかった書類は、今や、折り目や細かい皺が無数に刻まれていた。
それは、一旦はその存在を忘れようとした環が、長期間、デスクの引き出しの奥深くに追いやっていた結果だった。
しかし、どんなに書類を視界から遠ざけたところで、この件は結局、ふとした瞬間に意識に浮上し続け、完全に消えることはない。
――これ以上、問題の先送りは、できない。
そう判断した環が、まず最初に起こした行動が、今日のゆかりへの相談というわけだった。
「大学の頃、私が趣味で書いてた美術評論、覚えてる?あれを読んでたらしくて」
「…あー。あの、妙に理屈っぽい、アレね」
「…そう、それ」
半開きの目で、どこか呆れたような口調で言うゆかり。
その様子に、環は、くすりと苦笑いを浮かべた。
「マニアック過ぎて、当時は読んでくれる人なんて誰もいなかったよね。でも、この人にとっては、逆にそれが良かったみたい。考え方が新鮮だとかで…」
「へえ……」
ぼんやりと呟きながら、ゆかりは、テーブルに置かれた書類を手に取り、パラパラと捲った。
しかし、そこに挟まれていた小池の名刺を目にした瞬間、その顔つきがさっと真剣なものに変わる。
「……すごい。ここ、美術評論界隈じゃ、かなり大手のしっかりしたところだよ」
分野は異なれど、小池と同業――出版社の編集者であるゆかりには、当然の業界知識だったらしい。
ゆかりは、真剣な表情を崩さないまま、書類から視線を外し、環と顔を合わせた。
「受けるの?……結構、大変だと思うけど」
反対はしない。だが、決して小さくはない懸念を覗かせながら、ゆかりは問いかけた。
環は、目を伏せ、しばらく無言で考え込んだ。
「……正直、自分がどうしたいと思ってるのか…自分でも、よく分からない。それに私、大学を出て就職してからは、ずっと絵から離れてたし…」
率直な心情を、静かにぽつぽつと打ち明ける。
だがそこまで口にして、環は、一度ぐっと唇を噛みしめると、視線をゆかりに合わせた。
「……だからね。私、今からまた絵を描いてみようと思う。もう一度、美術に触れて、自分の気持ちがどう動くのか、まずは確かめてみる。……どうかな?」
少し照れくさそうな、微笑み。
そわそわと指で髪を触りながら、控えめに、しかしまっすぐに、環はその決意を表明した。
「……いいじゃん。環の絵、私もまた見てみたいし」
対するゆかりも、環の静かな意志を受け止めて、にっこりと顔を綻ばせた。
中学時代、環と一緒に入っていた美術部での思い出が蘇り、ほんの一瞬、その瞳があどけない輝きを放つ。
「それにしてもさ、この東都美術の人、よく環の居場所が分かったね」
ところが、会話の途中でふと思い至ったのか、ゆかりは突然、全く別の話題を提示した。
今一度、小池の名刺を眺めながら、僅かに首を傾げる。
「うん…実際、どうやって私の勤め先を知ったのかは、教えてくれなかったんだけどね。でも多分、本を出してた当時の痕跡から、今までずーっと、私を探してたんじゃないかって…」
ゆかりの疑問に、すらすらとそんな推測を語る環。
だが、環とは対照的に、ゆかりの表情は、「げっ」という声でも聞こえてきそうな、苦々しいものに変わる。
「いやそれって、大学生の頃からだから、数年単位ってこと?あの業界の人たち、新人発掘には特に執念深いって聞くけど、そこまでいくと怖いなあ……」
そこまで言って、ゆかりは、はっと何かに気づいたように、急に話を止めた。
「ねえ、環。そういえば、例の後輩くんって、その後どうなったの?」
そして再び、話題を変える。
しかし、その問いが発せられた瞬間、環の表情は、明らかに強張った。
目を泳がせ、急に俯いたかと思うと、それきり黙り込む。
「……どうしたの?なんかあった?」
その環の様子を見て、ゆかりはたちまち顔を曇らせると、そっと声を落として尋ねた。
暫しの沈黙。だがやがて、俯いたまま、環の口元がぼそぼそと動く。
「…………言われた」
「え?何?」
「好きって、言われた…………」
ゆかりは、盛大にコーヒーを吹き出した。
「……は!?」
激しくむせ込みながら、信じられない様子で、勢いよく聞き返す。
しかし、環の爆弾発言は、間を置かず、更に続いた。
「それでこの間、一緒にカフェでご飯食べて……」
「い、いや、ちょっ…待って!あんた今日、一体何個スクープ持ってきてんの!?」
「……ス、スクープって……」
困ったような、恥ずかしいような顔で、環は繰り返した。
「…で、大丈夫だった?何も変なことされてない?」
しばらくして、ようやく呼吸の落ち着いたゆかりが、真面目な顔に戻って問いただす。
慎重に環の反応を探るその瞳には、少なくない警戒の色が含まれている。
「うん、すごく親切にしてくれたし、楽しかったよ。それに、変なことって言ったら、むしろ私の方が…。実はね、最後、ちょっと泣いちゃって…」
言いにくそうに、少し口籠りながら発せられた、最後の台詞。
それを耳にした瞬間、ゆかりは思い切り眉を顰めて、再び「…は?」と低い声で聞き返した。
「……詳しく話しなさい」
◇◇◇
「…………」
環の身に起きた、先日のカフェでの一件。
一通りその経緯を聞き終えたゆかりは、言葉を失い、暫し呆然となった。
――中学時代の、あの日。
親友の心に取り返しのつかない傷痕を残した、あの日の出来事。
一緒に涙を流すことしかできなかった、無力感。
今まで、忘れたことはない。だからせめて、傍でずっと、見守り続けてきた。
しかし今後、環の生き方が変わることは決してないと、同時に諦めも抱いていた。
だけど――
「……すごいよ」
ゆかりは、震える声で、ぽつりと呟いた。
「環、ちゃんと選べてるじゃん」
鼻の奥に、ツンとした痛みが走る。
目頭が熱くなり、ほんの僅かに、視界が揺らぐ。
「――がんばったね、環」
包み込むような穏やかな声でそう言って、ゆかりは、満面の笑みを浮かべた。
細められた目尻から、ほんの一粒、涙がこぼれ落ちる。
ゆかりの言葉と涙に、環は一瞬、目を丸くした。
しかしすぐに、僅かに頬を赤らめながら「…ありがとう、ゆかり」と小さく返した。
「……ごめん、話逸らしちゃった。ええと…絵、再開したいんだっけ?」
それ以上の言葉が出てこなくなったのか、ゆかりは、湿っぽくなってしまった空気を誤魔化すように、話題を戻した。
環は「ううん、大丈夫」と首を横に振って、そのまま会話を続けた。
「そのことなんだけど、一つお願いがあるの。今度、画材屋に行くのに付き合ってもらえないかな。油絵の道具、今はもう何も残ってなくて…」
苦笑しながら、少し申し訳なさそうに、そう願い出る環。
ゆかりは、二つ返事で承諾の旨を伝えようとして――ふと、思いとどまった。
「……環、それさ。私なんかじゃなくて、その後輩くんと一緒に行ってきなよ」
突然の、予想外の提案。
環は思わず、「えっ?」と困惑の声を上げた。
「いやでも、画材屋なんて、絵に興味ない人が行ったって、つまらないだけだろうし…」
その言葉に、ゆかりはわざとらしく溜息を吐き、呆れたように頭を振った。
「違う、違う。その後輩くんが興味あるのは、あ・ん・た。……随分、環のこと知りたがってるみたいじゃん」
そう言って、にやりと意地悪そうな笑みを浮かべながら、軽く環を指差す。
環は、うっと言葉に詰まり、少し不安そうに、目を伏せた。
「……迷惑、じゃないかな」
「なわけないじゃない。むしろ、喜ぶに決まってるって」
やけに自信満々で即答するゆかりに、環は、可笑しそうにくすくす笑った。
「それ、直感?」
「そ。下手な理屈より、信じられるでしょう?」
「……そうかもね」
環のやんわりとした肯定を受け取って、ゆかりは、満足そうに口元を綻ばせる。
「…がんばりなよ。環が何を選んでも、私は応援してるからね」
そして、穏やかに、揺るぎない励ましの言葉を贈った。
ゆかりは、ようやく落ち着いた様子で、再びコーヒーに口をつけた。
だがしばらくして、ふと、また何かに思い至ったらしく、環に向かって口を開く。
「あっ、そうだ。画材欲しいんだったらさ、私が持ってるの、少しあげようか?筆なら大分余ってたと思うし…」
「本当?すごく助かるよ」
「じゃあ今日、久しぶりに家に寄っていく?」
「うん、お邪魔しようかなあ」
――休日、午後のひととき。
カフェに満ちる華やいた雰囲気の中、いつになく明るい環とゆかりの会話は、彼女たちが満足するまで、尽きることなく続いていった。
次回更新は9/11(金) 20時の予定です。




