第19章 デコード
「あや……千草くん、お疲れさま」
――翌日、15時。
今日は朝一番で、急遽外回りの仕事が入った環は、この時間になってようやく帰社することができた。
千草とは、今朝はろくに顔を合わせる暇もなかった。
環は、オフィスに戻ってすぐ、自席にいた千草に、まずは普段通りの挨拶をする。その際、昨日の名残でうっかり『文人くん』と名前を呼びそうになったのを、すんでのところで訂正した。
環の声に、仕事の手を止めて、振り返る千草。
その顔は、昨日とは打って変わって、いつもの感情の読めない無表情に戻っていた。
「………えっと。15時、なんだけ…ど……」
所在なさげに指を絡ませながら、途切れがちに言う。
環の方から、15時に休憩を呼びかけたのは、今日が初めてだった。
慣れないまま、かけるべき言葉を考えず話し始めたせいで、全く要領を得ない声かけになってしまう。
「…15時ですね」
確認するように繰り返し、千草は、一瞬だけ腕時計に視線を落とした。
「自発的な行動は、評価対象です」
淡々と所見を述べながら、作業中だった書類を簡単にまとめて、デスクの端に寄せる。
それと同時に、目の前のモニターの電源が突然落ちて、真っ暗になった。環が声をかける前から、既にパソコンはスリープモードに切り替えていたようだった。
「……来てくださり、ありがとうございます」
椅子から立ち上がる。
そして、デスクに視線を落としたまま、周囲には届かない程度の声量で、そう小さく告げた。
環は一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐにふっと微笑みを浮かべて、「…うん、来たよ」と返した。
◇◇◇
オフィスを出て廊下を進んでいくと、見慣れた窓の向こうの景色が、環と千草を出迎えた。
しかし、白猫の姿は、まだないようだ。
環は、窓ガラスに反射してうっすらと映った自身の姿を、じっと覗き込んだ。
目の周りが、少し腫れぼったい。瞼を閉じて、上からそっと指で触れる。
昨日は帰ってからすぐに、しっかりと冷やしたつもりだったが、結局、跡になってしまったらしい。
「少し、跡が残っていますね」
その仕草を、窓ガラス越しに視界に捉えた千草が、環に語りかける。
「昨日は、十分に休めましたか」
環は、静かに頷いた。
「……うん。むしろ、いつもよりよく眠れたくらいだから、大丈夫」
その言葉に偽りはなく、今朝から、環の頭はいつになくすっきりと冴えていた。
久しぶりに泣いた影響だろうか。昨夜は、ベッドに入った途端に強烈な眠気を催し、そのまま朝まで泥のように眠ってしまった。
環の返事を聞いた千草は、「そうですか」と一言だけ反応して、窓の外に意識を戻した。
白い影は、まだ現れない。
「白いのが来るまで、まだ少しあるようです」
千草は、囁くような小声で、続けた。
「昨日の続き、しますか」
問いかけられた環は、ほんの数秒だけ黙り込んだ。
だがすぐに、流れるような――驚くほど、迷いの感じられない自然な動きで、窓枠に乗せられていた千草の手に、自身の手を重ねた。
――初めて、触れる。
普段から間近で見慣れていたはずの千草の手は、実際に触れると、想像とは全く違う感触がした。
滑らかに見えた手指は、意外と骨ばっていて、硬い。
関節や指など、一つ一つのパーツが、全て環のものより一回り大きい。
何度も角度を変えて、まじまじと観察した後、少し力を入れてぎゅっと握ってみる。
冷え切った手に、千草の体温がじんわりと伝わって、ひどく心地が良かった。
「………」
環に手を触れられている間、千草の呼吸は、徐々に乱れ、浅くなっていった。
握られた手を、数秒遅れて、包み込むように握り返す。
ただし、その力は決して強くはなく、逃げられる余白は残したまま。
「冷えています」
千草の親指が、温度差を確かめるように、環の手の甲をなぞる。
「温める目的なら、合理的です」
声は、落ち着いている。だが、心臓の鼓動は、一定ではなかった。
「……環さん」
合図のように、名前を呼ぶ。今日の試験は、もう始まっている。
千草の視線は、変わらずに窓の外に向けられていた。しかし、意識は完全にその手の中にある。
「…これは、試験ですか。それとも、衝動ですか」
突然、全く予想外の問いが飛んできて、環は「えっ?」と声を詰まらせて、首を傾げた。
重ねた手に、改めて視線を落とす。
「……両方?」
未整理ではあったが、感じたままに環は答えた。
千草は、「なるほど」と相槌を打って、静かにそれを受け取った。
「両方、ということは。これは、会話の続きでもあり、衝動でもある」
まるで事象を解析するように、言葉を一つずつ並べて定義する。
――そこで遅れて、理解する。
先ほど千草の言った『昨日の続き』とは――つまり、『会話』のことだった。
環の顔に、一気に熱が集まった。
「………ごっ、ごめん……!」
勘違いに気づいた環は、慌てて繋いだ手を振りほどこうとした。
だがその瞬間、千草は、ほんの少しだけ、その手を握る力を強めた。
「昨日できなかった衝動を、今、実行した」
親指が、もう一度、手の甲をなぞる。
「むしろ、歓迎します。評価は上がります」
一度抜け出す機会を逸した環の手は、結局、千草の手中に収まったまま。
千草は、環の手を丸ごと抱えるように持ち上げると、僅かに自身の方に寄せた。
そして、先ほど環がしていたのと同じように、その指先に視線を落とし、じっと観察を始める。
居心地の悪さに耐えられなくなった環は、思わず視線を窓の外に逸らした――ちょうど、その時だった。
「……あ」
不意に、ビルの角から、白い影がふわりと現れる。
「…来ましたね」
環が発した声に、千草の視線が遅れて窓の外を向く。
まっすぐに窓の下へ近寄って来た白猫は、草むらで身体を丸めて座り込み、毛づくろいを始めた。
陽の光を浴びて、きらきらと揺れる毛並みに、環の意識はあっという間に奪われる。
再び、同じように窓に向かい、横並びの状態になる二人。
その様子が、窓ガラスに映り込んでいることに気づいて、千草は、ふと問いかけた。
「……環さん。今の状態は、恥ずかしくないですか」
環の身体が、ぴくりと反応を示す。
しかし、環は、千草の問いには答えず、逆に聞き返した。
「……千草くんは、恥ずかしくないんだよね」
千草もまた、すぐには答えなかった。
その僅かな沈黙の間に、環は、ばつが悪そうに俯いた。
「恥ずかしい、の定義によります」
しばらくして、千草は、至って平常通りに、まずは論点の整理から入った。
「周囲にどう見られるか、という意味なら、ありません」
きっぱりと、言い切る。
「ですが、好きな人の隣にいることが照れくさいか、という意味なら……多少、あります」
窓枠の上で握ったままの手に、再び、一瞬だけ力が加わる。
白猫は相変わらず、気ままに、のびのびと腹を見せている。
「ただ、これは恥というより、光栄なことです。環さんの隣にいることを、隠したいと思ったことはありません」
そう、静かに話し終えた声からは、普段の冷淡さは消え失せ、代わりに微かな熱を帯びていた。
しかし一方で、その千草の答えを聞いた瞬間、環は、完全に思考が停止した。
内容そのものよりも、その中でさらりと放たれた、ある一つの単語に――
――好きな人の隣にいることが照れくさいか、という意味なら――
―――『好きな人』
急激に、心臓の鼓動が速くなる。
先ほどとは比べ物にならない大量の熱が、みるみる顔に集まる。
身体が、手が、震え出す。手のひらの触れ合っている面が、あまりにも熱い。
環は、ほとんど反射の勢いで、今度こそ繋いだ手を振りほどいた。
そして、素早く千草に背を向けると、床に視線を落とし、固まって一切動かなくなった。
「『好きな人』という単語に反応しましたね」
千草は、振りほどかれた手を中空で止めたまま、環の背に向かい、容赦なくそう告げる。
「撤回はしません。曖昧にする方が、不誠実です」
更に、しれっと付け加える。
その言葉に、環の心臓はますます早鐘を打つ。
血が上り過ぎてくらくらする頭を抱えながら、環は、尚も振り向かないまま、震える声で抗議した。
「で、でも……そんなに、さらっと言わないでよ……!」
珍しく、明確に責め立てるような口調。
しかし、その声は弱々しく、全くもって迫力に欠けていた。
千草は、そんな環の様子に、ほんの少し首を傾げるような仕草をした。
そして次の瞬間、実にあっさりと、思いもよらない言葉を言い放つ。
「……ずっと言っていましたが」
頭の中が、急に真っ白になる。
環は、「……へ?」と、気の抜けたような声を出して、ほんの少しだけ千草の方を振り向いた。
千草は、軽く息を吐いた。
「…過去に、私の中で結論付けられた、『恋愛の定義』というものがあります」
それから唐突に、何やら持論を語り始める。
「私は、恋愛とは『理由のつかない不合理な感情により、例外処理が発生するもの』と定義しています」
淡々と、いつもの調子で、続ける。
「ですから、以前、既に伝えました。あなたに関する判断だけ、例外が発生すると。…理由は、未だ整理できていませんが」
その台詞に、環は、ある記憶を呼び起こされた。
もう、随分と前のことになってしまったが――環指名での顧客企業からの対応要請を、千草に代わられた後で、交わした会話――
『月村さんが壊れると、私の基準が狂います。判断が鈍る、優先順位が変わる。それは合理的ではありません。――だから、困ります』
『月村さんに関する判断だけ、例外が発生します。理由は、整理できていません』
環は、言葉を失い、口元を手で覆った。
「……私は、最初から、環さんのことを隠すつもりなどありませんでした」
ついに反応一つ返ってこなくなった環から、窓の外に視線を移して、千草はぽつりと言う。
「しかし、それが原因で環さんの心拍数が危険域に入るなら、業務効率に支障が出ます。以後、職場では配慮します」
白猫が立ち去る気配は、まだない。
念入りに、二度目の毛づくろいを始めたばかりだ。
「休憩時間は5分です。今日は、あと1分」
千草は、腕時計から視線を上げようとして、目の前の窓ガラスに映る自分と、ふと目が合った。
よく目を凝らせば、その耳は、ほんのりと赤色に染まっている。
「平静を取り戻す猶予は、まだ残っています」
支障なく仕事に戻れるよう、残された僅かな時間の使い方を、暗に示唆する。
しかしそれは、環だけではなく、窓の中の自分自身にも、同様に言い聞かせているように思えた。
次回更新は9/4(金) 20時の予定です。




