第18章 再定義 / 03
――パタン
夜、すっかり静まり返ったマンションの一室で、扉が閉まる音が小さく響く。
環と別れた後、千草はいつも通りの帰路につき、何事もなく自宅まで辿り着いた。
玄関で靴を脱ぎ、リビングに向かう途中の廊下で、ネクタイを取る。
部屋に入ってすぐ、スーツの上着を脱いで椅子の背にかけると、どっさりとソファに座り込んだ。
深い溜息が、一つ。
それから、目の前のテーブルに肘を置き、俯いて額を押さえる。
そっと、目を瞑る。途端、先ほどまでの夜道での光景と、環の涙が、鮮明に瞼の裏に浮かんだ。
――正直に言うと、彼女が泣き出したあの瞬間、心臓が一度止まりそうになった。
想定していなかったわけではない。
むしろ、そうなる可能性は、店の外で会話を始めた段階からずっと考えていた。
言葉は、常に慎重に選んでいた。
だから『一緒に持つ』と言ったのは、勢いでも、慰めでも、打算でもない。
事実として、自分はもう、彼女のいない日常を想像できなくなっている。
歩く速度。
15時の5分間。
窓際と白猫。
優しい微笑み。
穏やかな声。
全てが気づけば『習慣』になり、今では『基準』になっている。
だが、あの涙は、今まで誰にも預けなかったものを、そのまま全て差し出された感覚だった。
重い。
当然だ。人生を通して積もったものだ。
自身の両手を、改めて目の前で見つめる。
――あれを、本当に、持てるのか。
背中に、ぞくりと、冷たいものが走る。
今、改めて問いかけてみて、やはり答えられない自分がいる。
情けなく思えど、共に潰れる可能性に、恐怖を感じていないと言えば、嘘になる。
それでも。
「ここに居たい」
「うれしい」
「行きたい」
――今日の、あの言葉を聞いてしまった後では、『逃げる』という選択肢は、どうしても浮かばなかった。
自分は、選択されている。義務でも、遠慮でもなく。
それは、意味があるかも分からなかった今までの行為に、存在価値を与えるには十分だった。
だから今は、それでいい。
未来の可能性は、考えなくていい。
答えは急がなくていい。
ただ、明日も15時に、彼女と一緒に窓際へ行く。
それだけで、十分だ。
次回更新は8/28(金) 20時の予定です。




