第18章 再定義 / 02
外に出ると、ここに来た時とは比べ物にならないほど冷え込んだ空気が、全身の肌を刺した。
身を切るような夜風が流れて、コートの裾を絶えずはためかせる。
あれほど多かった人通りは、今ではほとんど無くなって、物寂しい静けさが周囲を包んでいた。
店の入り口前の段差を下りてから、環は、駅方面に向かい、何も言わずにふらりと道を歩き出した。
夜闇の向こう側、その先をぼんやり見つめていると、徐々に気分が鎮まっていく。
ゆっくりと足を進めながら、環は、先ほど起きた出来事について、ぽつぽつと語り始めた。
「……さっきみたいなことって、本当に、よくあることなの。子どもって好奇心旺盛だし、思ったことがすぐ口に出るから。特に、あのくらいの男の子は」
千草は、環の数歩後ろをついて歩きながら、黙って話に耳を傾けていた。
環は、苦笑しながら、続けた。
「でも、ああやって直接話しかけられたのは久しぶりだから、びっくりしちゃった。ジロジロ見られるのは、いつものことなんだけど」
視線を、中空へと投げ出す。
遠い日の光景を眺めているような、虚ろな瞳。
「……私が子どもの頃から、同級生にはよくからかわれてたし。だから、本当に慣れてる」
最後の一言は、おどけたような、笑い交じりの声だった。
同時に笑顔も作っていたつもりだったが、失敗している気がして、千草の方を振り向くことができなかった。
「……慣れた理由は、理解しました。適応は、生存戦略です」
話し終えて尚、そのまま歩みを止めない環の後ろ姿に向かって、今度は千草が口を開く。
「ただ、それを『平気』と再定義する必要はありません」
環に歩幅を合わせ、つかず離れず、一定の距離を保ち続ける。
「子どもが悪意無く言ったことと、環さんが傷つかないことは、別問題です」
そこまで言って、千草は一度、言葉と足を止めた。
「…………からかわれた時、環さんは、どうしていましたか」
掘り返すためではない。理解するための問いだった。
だがそれでも、その問いを口にするまでには、強い躊躇いを感じさせる長い沈黙があった。
千草につられるように、そこで環もぴたりと立ち止まった。
顔を上げ、夜空を仰ぎ、小さく輝く星々を眺める。
――どうだったっけ。
目を細め、脳内に残っている、古い記憶を辿る。
しかし、どんなに努力しても、幼かった頃の記憶は、ぼんやりと霞がかかっている。
「……まだ子どもだったからなぁ。よく覚えてないけど、何か言い返したりはしてないと思う」
上を向いたことで、僅かに重心が傾いた身体を支えようと、無意識に杖に体重をかける。
その瞬間、杖の接合部分が軋み、ぎしりと、歪な音が響いた。
「……ただ、恥ずかしくて、私は普通とは違うんだなって思ったのは、覚えてる……」
ぼうっと空を見つめたまま、独白のように、吐露する。
「………ごめん。こんな話、聞きたくないよね」
しかし、そこまで言って我に返ったのか、ようやく千草の方を向き直ると、環は申し訳なさそうに言った。
振り向いた拍子に顔に流れた髪を、慌てて手で掬って耳にかける。
そこには、自らの失言を誤魔化すような、引きつった笑みが張りついていた。
「いいえ。聞きたくない話ではありません」
しかし、千草は、迷わずに即答した。
「環さんの過去は、私にとって必要な情報です。聞きたくないなら、最初から聞きません」
ほんの一瞬、環の手元の杖に、視線が向く。
そこから、つい先ほど発せられたばかりの、ノイズのような摩擦音が、まだ耳に残っている。
「……私は、環さんが『普通と違う』と感じた瞬間を、軽く扱うつもりはありません」
静かに、しかし、ひどく重々しくそう前置きをして、
「今も、同じですか」
今日になってから最も真剣な眼差しで、千草は、問いかけた。
環は、目を伏せた。
「………うん。それは、消えないよ。多分これからも、一生」
やがて、ひどく落ち着いた、確信的な声色で、環は答えた。
「…でも、それは仕方のないことだよ。折り合いをつけるしかないって、思ってる…」
そう続けて、千草とまっすぐに目を合わせる。
その顔には、これまでにないほど静かで、穏やかな微笑が滲んでいた。
千草は、暫し環と顔を見合わせた後、不意に、その背後――環が歩いていた道の先へ、視線を移した。
「……事実と評価は、別です」
そう、ぽつりと呟きながら、千草は再びゆっくりと歩き出した。
環の横を通り過ぎ、そのまま、追い越していく。
「『違う』という事実はあります。ですが、『劣っている』という評価は、他人が勝手につけたものです」
抑揚のない口調でそう続けながら、更に数歩先を行ったところで、足元に小さな段差を見つける。
背後から、カツカツという杖の音が、少し遅れてついてくる。
千草は自然に、環が通りやすい段差がない道へ、進行方向をずらした。
「折り合いをつけることは、悪いことではありません。生きるために必要な処置です」
視線は前を向いたまま、声だけは、環へ向いている。
歩く速度を、少しだけ落とす。杖の音が、近づいて、大きくなる。
「ただ、環さんがその折り合いを、自己否定と同義にしているなら――それは、再検討の余地があります」
断定はしない。だが、妥協もできない。
やがて、狭い路地裏から抜けて、元の大通りに出た。
そのまま交差点に向かって、脇の歩道を同様に歩き続ける。
千草は、歩く速度を更に落とした。そして、駅前の道に繋がる横断歩道に、二人ほぼ同時で、辿り着く。
しかしちょうど赤信号となり、環と千草はそこで完全に横に並んで、立ち止まった。
千草は、顔は前へと向けたまま、視線だけを僅かに環へと向けた。
「私は、あなたが『違う』ことを、損失とは見ていません」
――――風が、止んだ。
千草の言葉が、流されず、その場に残響となり留まっている。
「………それでも、消えないと分かっています」
数秒の沈黙の後、声を低く落として、そう続ける。
千草は、一瞬目を伏せると、小さく息を吸い込んだ。
「ですから、無くすのではなく、一緒に持ちます」
揺らぎのない声が、風の代わりに、まっすぐに前へと進んでいった。
「重さが半分になるとは言いません。ですが、独占はさせません」
そこまで言い切って、今度は、胸に深く溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出した。
千草の言葉を全て聞き終わった環は、ただただ、黙り込んでいた。
俯き気味のその表情は、千草には知る術がなかった。
「……………………………あれ」
しかし突如、環の口から、小さな困惑の声が漏れた。
ゆっくりと、杖を握っていない方の手の指で、自らの頬をそっと撫でる。
熱く、透明な液体が、指先に付着した。
「……え、やだ。嘘、嘘」
視界が、みるみるうちに歪んでいく。
手首の袖を、慌てて目元に当てる。しかし、後から後から溢れて、止まらない。
環の瞳から零れる、大粒の涙が、必死に頬を拭う服に、大きな染みを作っていく。
「…………あ、やと、く、………ごめ………」
言葉が、まるで上手く出てこない。
ついに嗚咽が漏れ出して、環は、何も喋ることができなくなった。
堰を切ったように崩れていくその様子に、千草が明確に環に顔を向けた。
「…謝らないでください」
そう言って、涙を乱暴に拭う環の腕に、触れるか触れないかの距離で、手が止まる。
「環さん」
改めて、はっきりと名を呼ぶ。
その声は静かで、しかしどこか、力強さが込められていた。
「泣くことは、失敗ではありません。今まで一人で踏みとどまっていた証拠です」
夜道を走っていた数少ない車が、一台、白線の前で停止する。
いつの間にか、車道の信号は、赤に変わっていた。
「私は、あなたを弱いとは思いません。むしろ、ずっと強い」
続いてすぐに、横断歩道の赤信号が、青に変わる。
千草は、一歩、足を踏み出した。
「………歩けますか」
そして、二歩目を踏み出す前に、環に向かって、問いかけた。
環は、相変わらず目元を袖口で押さえながらも、こくこくと、はっきり首を縦に振った。
「ゆっくりで」
無言の肯定を受け取った千草に、そう言われた通り、環は、ゆっくりと横断歩道を渡り始めた。
千草は、完全に環に歩調を合わせて、その隣を並んで歩いている。
「……文人くん……」
歩きながら、ようやく嗚咽の少し落ち着いた環が、千草の名を呼ぶ。
目元から腕を離すと、涙でぼやける視界に、不意に、千草の手が入った。
その瞬間、なぜか無性に、その手に触れたい気分になる。
環は意識せず、千草に近い方の、自身の右手を伸ばそうとする――しかしその右手は、杖を握るため既に塞がれており、願いは叶わなかった。
「ありがとう………」
だから、代わりに、言葉を贈った。
「……いえ、こちらこそ」
返事は最低限。だが、その声色は温かい。
「…触れたい時は、言ってください。私が合わせます」
ほんの一瞬、すぐ傍にある環の手が、何かを求めるように伸ばしかけられたのを視界に捉え、千草は言う。
「ですが、今は隣にいます」
横断歩道は、あともう数歩で、渡り終わる。
取り残されることも、先を超してしまうことも、お互い、一度も無く。
「それで、足りますか」
そして、向かいの歩道へ辿り着く。
車道から十分距離を取ったところで、千草は環を向き直り、静かに尋ねた。
「…うん、十分」
環は、千草の顔を見上げると、涙交じりにそう答えた。
目尻に溜まっていた涙を、最後に指で一拭いして、気が抜けたようにふわりと微笑む。
「………それなら、よかったです」
環の微笑みを受け止めて、千草は今までにない素直な声音で、短くそう返した。
駅前の歩道を、変わらず二人並んで、進んでいく。
路端の街灯が、環の濡れた瞳を、淡く照らしている。
程なくして、いつもの駅の改札口に繋がる分かれ道が、視界の前方に現れた。
「今日は、合格です」
千草は、ほんの少し、満足そうに口角を上げた。
「満点ではありません。ですが、次に進めます」
しかし冷静さは手放しておらず、的確に、現状の評価を述べていく。
「焦ることはありません。環さんが、自分を損失だと思わなくなるまで、何度でも歩きましょう」
そして、継続の宣言をする。
このまま終われない意志を示すように。確実に、未来へ繋がるように。
「……明日、15時。来ますか」
唐突に、具体的なすぐ先の未来の確認が飛んできて、環は一瞬、言葉に詰まった。
「……うん。行きたい……」
しかしすぐに、はっきりと環は答えた。
自分でも不思議なほど、迷いは一切存在しなかった。
「承知しました。明日、15時」
千草は、繰り返した。確認ではなく、確定として。
「評価記録を更新します。『行けます』ではなく、『行きたい』と言われたので。自主的な参加。満点に一歩、近づきました」
喜びが、理屈に形を変えて、溢れ出る。
「……おめでとう」
環は、千草に調子を合わせて、小さく賛辞を贈ると、くすっと笑った。
その様子に、千草の目元が、うっすらと緩む。
「今日は、ここまでです」
――分かれ道の、すぐ手前。
別れる直前、環と千草は立ち止まり、少し距離を開けて、向かい合った。
「続きは、明日」
「うん……また、明日ね」
夜空の下、確かな約束を、一つ交わす。
千草は、最後に軽く頭を下げると、ゆっくりと背を向け、分かれ道の一方を進んでいった。
ようやく止まった涙の跡をなぞりながら、環は、去っていく千草を見つめて、手を振った。
足音が遠ざかり、後ろ姿が小さくなり、やがて完全に見えなくなってしまっても――記憶に残ったその影と声を追いかけるように、環は、いつまでもいつまでも、千草を見守り続けていた。
次回更新は8/22(土) 20時の予定です。




