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隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第3編 萌芽
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第18章 再定義 / 01

「お客様、お水のお代わりはいかがでしょうか?」


――突然、真横から響いてきた、ワントーン引き上げられた女性の声。


それに環は、冷水を頭から浴びせられたように、びくりと肩を跳ね上げた。

慌ててぱっと横を振り向くと、そこには店員が水のピッチャーを抱えながら、愛想のいい笑顔でこちらの様子を伺っていた。


「……あ、いえ…大丈夫です」

「承知しました。ごゆっくりお過ごしくださいませ」


不意を突かれて、少し詰まりがちになりつつも、環はやんわりと店員の申し出を断った。

環の答えを聞いた店員は、一礼をして、すぐに他のテーブルへと移っていった。


急に熱が冷めた感覚になった環は、手首の腕時計にちらりと視線を落とした。


「………そろそろ、出る?」


気づけば、もう随分長居をしていたようだ。

千草は、去っていく店員の背中を一度だけ目で追った後、環に視線を戻した。


「…そうですね」


テーブルの上に並ぶ、空になったケーキの小皿と、残り僅かになったコーヒー。

名残り惜しさは残っているが、無理に引き延ばすべきではない。


「今日は、ここまでにしましょう」


静かに、そう告げる。

しかしそれは、終わりの宣言ではなく、次を前提にした一区切りの言葉のようだった。


「会計に行ってきます」


テーブルの隅に置かれていた伝票を手に取りながら、千草は立ち上がった。

そのままレジの方へ何歩か進んで、ふと、環を振り返る。


「……環さんは、ゆっくりで」


淡々とした口調だが、その声には、まだ少し柔らかさが残っていた。



◇◇◇



千草がレジで会計をしている間、環は身の回りのものを整理して、店を出る準備をしていた。

鞄を肩にかけると、椅子を引き、通路に足を出す。

脇に立てかけていた杖も手に取ると、足と同じように通路に出した。


――コツン。


軽い打音。杖が、木製の床を叩いて、発せられたものだった。

そのまま、杖を掴む手にぐっと力を入れる。そして立ち上がろうと顔を上げた、その瞬間――環は、ひどく驚いて、息を呑んだ。


「おねえちゃん、その足どうしたの?」


子どもだった。小学校低学年程度と思われる、小さな男の子。

一体いつから居たのだろうか。全く気づかない内に、その子は、環のすぐ目の前に立っていた。

環は、慌てて周囲に目を配った。保護者は――近くには、見当たらない。


「ねえ、おねえちゃん。聞いてる?」


しかし、環の狼狽などまるで知らず、子どもは再び、無邪気に話しかけた。

全く悪意のないきょとんとした顔をして、ひたすら環の足と杖を、まじまじと観察している。

その様子を見て、環の目の奥に、ほんの少し陰りが宿った。


――こういうことは、珍しくない。


「…うん、ちょっとね。病気なんだ」


相手は、小さな子どもだ。

環は心の中で自分にそう言い聞かせながら、努めて優しく、笑顔で答えた。


「ふーん………」


しかし子どもは、自身が質問したはずが、その環の返事にまるで興味を示す様子がない。

そして、しばらく黙り込んだ後、環の足を見つめたまま、


「変なの」


――ぽつりと、そう呟いた。


子どもの呟きが発せられたのと、会計を終えた千草がテーブル近くまで辿り着いたのは、ほぼ同時だった。


――『変なの』


その単語だけで、十分だった。


子どもの言葉が耳に届くなり、千草は、歩調を一気に早めた。

数秒でテーブルまで辿り着くと、環の座る椅子の真横で、ゆっくりとしゃがみ込む。


「……環さん、この子は」


そして、環の横顔を下から覗き込んで、静かに尋ねた。


「うん…知らない子。迷子かな?」


曖昧な笑顔を浮かべながら、環は、そう答えた。

千草は、今度は子どもに向き直ると、その小さな瞳をまっすぐに見据えた。


「彼女の足は」


声が、低い。


「私にとっては、変ではありません」


怒鳴っているわけではない。怒っている様子もない。

だが、纏っている空気は、確実に張り詰めている。


「好奇心は、否定しません。しかし、本人の前で、評価する言葉は選んでください」


しっかりと目線を合わせ、およそ子ども相手とは思えない真剣な態度で、明確に線を引く。

子どもは、千草の言葉を理解できていない様子で、目を丸くして、ただ首を傾げていた。


「―――ユウタ!」


その時、通路の向こう側から、ひどく焦ったような女性の声が届いた。

子どもは弾かれたように声のした方向を振り返ると、「ママ!」と叫び、女性に向かって走り出した。

女性――母親が、駆け寄って来た子どもを、ぎゅっとその腕で抱きとめる。


「もう!一人で勝手に行っちゃ駄目でしょう!!」


母親は、安心と憤りの入り混じった声色で、子どもを叱責した。

そしてすぐに、子どもの手を引きながら、環と千草のところまで歩み寄って来た。


「ご迷惑おかけしてしまって、すみません!本当に、すみません…!」


何度も何度も、頭を下げる。

申し訳なさそうに謝罪を繰り返す母親に、千草は「問題ありません」と言い、軽く会釈した。

千草の言葉に、母親は、少しほっとしたような顔になる。

そして、最後にもう一度だけ深々と頭を下げると、子どもを連れて立ち去っていった。


その場に、再び、静けさが戻った。

千草は、ゆっくりと環に視線を戻した。


「………大丈夫ですか」


ややあって、千草は、そうぽつりと環に問いかけた。

それは、先ほどの子どもに話をしていた時よりも、随分と穏やかな声色だった。

だが、その目の奥には、まだ消えないものが残っている。


「……うん、大丈夫。よくあることだよ」


環は、変わらず曖昧に笑いながら、そう返した。

平然とした態度をとったつもりだったが、思ったよりも弱々しい声色になってしまった。


「会計、ありがとう。いくらだった?」


そして、わざとらしく話題を逸らす。


「気にしないでください。今日は、私に付き合ってもらったようなものです」


しかし、千草は金額を教えなかった。

そんなことよりも、確かめたいことが、他にあった。


「……よくあること、というのは」


視線を僅かに下げて、ひどく静かな声で、問う。

環は、俯いて黙り込み、答えない。


「慣れていることと、平気なことは同義ではありません。今のは、どちらですか」


環は、やはり何も答えなかった。

千草はふと、店の正面ガラスに、視線を移した。

外の景色が一望できる大きなガラスには、一面、夜の深い暗闇が映し出されている。


「外、出ますか」


逃げ道を用意するように、再び問いかけた。

環は、そこでようやく「そうだね」と言って頷いて、今度こそ杖をつき、椅子から立ち上がった。

次回更新は8/21(金) 20時の予定です。

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