第17章 運用テスト / 03
「お待たせしました、トマトパスタとサラダでございます」
環と千草が会話を始めてから程なくして、注文した料理が運ばれてきた。
店員が、ワゴンに乗った二人分のパスタとサラダを、テーブルの上に丁寧に移していく。
「ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
配膳を終えると、恭しく一礼をして、店員は去っていった。
テーブルの上、出来立てのパスタから立ち昇る、温かそうな湯気。トマトソースの豊かな香り。
「……美味しそうだね」
「はい」
軽く手を合わせ、食べ始める。
千草はフォークとスプーンを器用に使って、行儀よくパスタを口に運んでいた。
しかしその視線は手元ではなく、目の前で同様に食事をしている環の方へ、ひたすらに注がれている。
「……あの、そんなに見られると、ちょっと食べ辛い…」
千草の視線に気づいた環は、フォークをそろそろと下ろすと、やんわりと抗議した。
「……失礼しました」
無意識だったようだ。
指摘されて初めて自覚したようで、千草はそこでやっと視線を横にずらした。
その後、二人はほとんど言葉を交わすことなく、ただ黙々と食事を続けた。
時折食器の触れ合う音と、店内に流れる気怠い音楽だけが、その場の空気を満たす。
気づけば、パスタは、ほぼ同時に皿の上から無くなっていた。
環は、テーブル脇のナプキンを手に取ると、口元のソースをそっと拭った。
しばらくして、たまたま近くを通りかかった店員が、空になった皿に目を留めるなり、すかさず歩み寄って来た。
「失礼します」と言って、音を立てないよう慎重に皿を回収していく。
「デザートはもうお持ちしてよろしいですか?」
「はい。お願いします」
「承知しました」
笑顔でそう応じた店員は、器用に積み重ねた皿を片手に、店の奥へと引っ込んでいく。
だが、数分もしない内に、今度は小さな皿とカップを2セット、お盆に乗せ、再びテーブルまで戻ってきた。
「チョコレートケーキと、食後のコーヒーをお持ちしました」
その言葉とともに、一気に広がる、甘い香りと、香ばしい香り。
ふわふわとした、茶色の小ぶりなケーキが、店員の手によって、テーブルの上に並べられていく。
それを目の当たりにした環の瞳が、注文時にメニューを見ていた際と、同じ輝きを放った。
店員が去ってすぐ、環は、三角形のケーキの先の方をほんの少しフォークで掬い上げると、そっと口へ運んだ。
甘い甘い、チョコレートクリームが、口の中いっぱいに広がる。
「……美味しい……」
素直な感動が、思わず、そのまま口から零れた。
仕事終わりの疲労した身体に、チョコレートの甘味がじんわりと染み渡り、頬が蕩けたように緩む。
その環の様子を、やはり無自覚に、千草はじっと見つめていた。
ほんの僅かな表情の変化も、決して見逃さまいと言うように、瞬き一つ、していない。
「甘いもの、好きですね」
事実確認のように、淡々と言う。
「……覚えました」
そう告げて、カップに口をつけ、コーヒーを一口、飲み下す。
それから、目の前の皿に乗っている、自身の分のケーキにふっと視線を落とした。
フォークを手に取ると、少しだけ切り分け、環と同じように口へ運ぶ。
「確かに、美味しいですね」
少しずつ咀嚼して、じっくりと、その味を確かめる。
「環さんがそのような表情になる理由が分かりました」
そして、もう一欠片、フォークで掬い取る。
「猫と、甘いもの」
一口目と変わらず、ゆっくりと時間をかけて、頬張る。
チョコレートケーキよりも、テーブルの向こうの空気が甘い。
その空気に誘われるように、千草の姿から、今度は環の方が視線を外せない。
「他に、何かありますか」
二口目を飲み込んで、千草は、静かに問いかけた。
―――『あなたを知る項目』を、増やすように。
「猫と、甘いもの……」
問いかけられた環は、しばらく考え込んだ。
自分の、好きなもの。手の指を折りながら、一つずつ挙げていく。
一つ。二つ。
「……絵……」
三つ。
千草は、折られていく環の細い指先を、静かに見つめている。
「あと、静かで安心できる場所…ここみたいな」
四つ。
「……四つ。把握しました」
そこで環の指の動きが止まり、打ち止めを察した千草は、小さく呟いた。
「一つ、訂正が必要と思われます」
しかし、すぐにそう、切り込んだ。
環の指から視線を外すと、目を合わせる。
「最後の項目は、『場所』ではないはずです。場所は条件に過ぎません。正しくは、安心できる『状態』です」
そこまで言って、一度、軽く息を吐く。
そして、いつになく真剣な口ぶりで、尋ねた。
「今は、どちらですか。場所ですか、状態ですか」
環は、手のひらをそっと、自分の胸元に押し当てた。
静かに目を伏せて、心臓の鼓動を確かめる。少しだけ、いつもより早く脈打っているようだ。
しかし、決して不快だとは感じない。
「安心してる状態……だと、思う」
手を胸に押し当てたまま、環は、答えた。
「逃げたい衝動は、ありませんか」
環の手元を見ながら、千草は、更に踏み込み、続けて確かめた。
環は、もう一度、自身の心に向かって問いかけた。
ここでの食事は久しぶりだったが、やはり美味しいと感じた。仕事で高まっていた緊張感も、今は随分と和らいでいる。
「……ない。ここに居たいって、思ってるよ」
その答えが耳に届いて、千草は一瞬の無言の後、大きく息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
姿勢よく整えられていた肩から力が抜け落ち、目を細めて、天井を仰ぎ見る。
「……ありがとうございます。今の回答は、非常に有効です」
そのまま、呆然と天井を見つめながら、告げた。
普段は機械のように淡々としているその声色は、今はほんの僅か、揺れを滲ませている。
「私も、環さんと、ここに居たい」
次に続いたその言葉からは、理屈が、完全に剥がれ落ちていた。
「……試験の途中ですが、現時点では合格点に近いです」
そこでようやく、いつもの調子に戻った。
「文人くん、やっぱり少し不安だった?」
そんな千草の様子を見て、環は、ついさっき解決したはずの疑問が、再び頭をもたげた。
思わずもう一度、遠慮がちに問いかける。
「……否定、できません。しかし今は、安心できました」
改めて指摘され、千草は、自嘲するように肩をすくめた。
「あなたが『ここに居たい』と言ったこと。私の一方的な選択ではないと、確認できました」
落ち着いた口調でそこまで語り終えると、千草は急に口を閉ざした。
暫しの間、沈黙が落ちる。
やがて千草は、何の前触れもなく環から視線を逸らすと、深く項垂れた。テーブルの上に、両肘をつく。
突然の千草の行動に、心配になった環は、訝しげに「文人くん?」と呼びかけた。
「『文人くん』、は」
何かを検証するように、ゆっくりと復唱する。
今日になってから、環が何度も口にしていた、その、自身の呼び名を。
「効きますね」
肘をついた手で、ぐしゃりと、自らの髪を掻き上げるように、触れる。
「……不利です」
顔を上げ、環をまっすぐに見据えて、静かに抗議する。
しかし言葉とは裏腹に、その声色はひどく穏やかだった。
その時の千草の顔を、環は、ただ驚愕の表情で見つめていた。
角の取れた、穏やかな声。優しく細められた瞳。
それは今まで、長い間一緒に働いてきた中で、初めて見る千草の姿だった。
「……文人くんって、そんな顔もできるんだ……」
思ったことが、そのまま言葉に漏れて、つい、じっと千草の顔を覗き込む。
「……そんなに珍しいですか」
千草は、釘付けになった環の視線を受け止めながら、落ち着いた態度でそう返した。
「環さんの前では、割と普通です」
さらりと、告げる。
特別だと誇示するわけでもなく、当然のことのように。
「他では、あまり出ませんが。出す必要もないので」
千草は、髪から手を離すと、今度は頬杖をついた。
ほんの少し傾いたその瞳に映っているのは、今はただ、環以外に何もない。
逃げるか、受け止めるか。
カフェのざわめきが、遠ざかっていく。
「…そうなんだ。文人くん、私にだけ見せてくれたんだね」
不意に、足元から浮き上がるような、高揚感に包まれる。
環は、頬に手を当てると、はみかむように、ふわりと微笑んだ。
「………うれしいな………」
それは、驚くほどに、甘やかで、柔らかい声色だった。
その瞬間、千草は、呼吸を忘れたように固まった。
瞬きを数回繰り返し、少し遅れて視線をテーブルに落とす。
「…………そういう顔、」
絞り出すような、低い声。僅かに、喉が鳴る。
俯いたまま、何かを堪えるように、固く瞼を閉ざした。
「………………反則です」
そして、誰にも聞こえないほど小さく、ぽつりと囁いた。
微かに、しかし確実に、動揺を含んで震える声。
「……しかし、環さんがそうやって受け取るなら、見せて正解だったと思います」
ようやく顔を上げ、そう告げた声は未だ低く震え、冷静さを取り戻そうとする努力が滲んでいる。
テーブルの向こう。
触れてはいないのに、やけに距離が近いと感じる。
甘いケーキと、コーヒーの香りが、二人の間をゆるやかに漂っている。
「嬉しい、ですか」
もう一度、確かめるように、呟く。
「………なら、もう少し見せます」
再び、ゆっくりと、優しく細められる瞳。
ほんの少し、口元も緩み、弧を描く。
―――今度は、はっきりと。
次回更新は8/14(金) 20時の予定です。




