第17章 運用テスト / 02
会社を出て、早速、環は千草を行きつけのカフェまで案内した。
夕方の時間帯、駅周辺は、帰宅ラッシュの人混みで溢れかえっていた。
足元に意識を集中させる環が、すれ違う人と肩をぶつけないよう、千草は周囲との距離を測りながら、環の隣を歩いた。
「……あっ。着いたよ」
やがて、駅前の大通りを一本外れた路地裏に入ったところで、環が前方を軽く指差す。
その先には、アンティーク調の落ち着いた佇まいの店が、素朴な木の看板を下ろしていた。
千草は、店の扉の前まで辿り着くと、一旦足を止め、その外観をぐるりと仰ぎ見た。
「ここには、よく来るのですか」
「うん。このお店、夜遅くまでやってるから…仕事帰りとかに。あ、でも、最近はあまり残業してないし、結構久しぶりかも……」
環の言葉に、千草は軽く頷いて「…そうですか」と答えると、静かに扉を押し開けた。
店内は、存外に広かった。ダークブラウンのテーブルとソファがずらりと並んで、暖色の照明に柔らかく照らされている。
しばらく待っていると、開かれた扉のベルの音を聞きつけて、店員がやってきた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「二名です」
愛想のいい笑顔を浮かべ、丁寧に尋ねる店員に、千草が端的に答える。
店員は、笑顔を崩さないまま「かしこまりました。こちらへどうぞ」と言うと、環と千草を奥のテーブル席へと案内した。
店員が去った後、千草は無言で椅子を引いて、環がそこに座るのを待った。
環は「ありがとう」と小さく礼を言い、なんとなく落ち着かない様子で、椅子に腰をかけた。
それに続いて、千草も、向かい合わせに座る。
ほんの一瞬、顔を見合わせた後、環はぎこちなく、テーブル脇のメニューを手に取った。
――試す、んだった。
「……文人くん、何にする?」
メニューを広げながら、なるべく自然体を装って、環は尋ねた。
「環さんと同じものでかまいません」
即答。
しかしすぐさま、補足が付け加えられる。
「…ただし、環さんが本当に食べたいと思うものを選んでください。私に合わせる必要はありません」
試験問題文を彷彿とさせる千草の言い回しに、環は「うーん…」と唸りながら、真剣にメニューと睨めっこを始めた。
だが、しばらく悩んだ結果、やはりいつもと同じメニューを頼むのが正解だろう――そう判断して、そっと呼び出しボタンを押した。
「すみません。このトマトパスタとサラダ、それと、食後にホットコーヒーをお願いします」
「かしこまりました。ご一緒に、セットでお得になるデザートはいかがですか?」
注文を受けた店員は、慣れた調子でそう言うと、ラミネート加工された別メニューを取り出した。
そこには、色鮮やかなケーキやパフェが、紙面いっぱいを彩っている。
環は、それらを瞳を輝かせながらしばらく眺めた後、控えめに千草に視線を移した。
「……文人くん、甘いもの平気?」
ほんの少し口籠りながら、照れくさそうに、尋ねる。
「問題ありません」
千草は、全く表情を変えずに、あっさりと答えた。
環はほっとして、店員の差し出しているメニューの、ある一か所を指差した。
「じゃあ…このチョコレートケーキも、お願いします」
「かしこまりました」
店員はにっこりと微笑みを浮かべて、手元の注文票に、追加のメモを書き加えた。
「そちらのお客様は、いかがなさいますか?」
そして、今度は千草の方に向き直って、注文を確認する。
「同じものを」
即座に、一言。
千草は、ただそれだけ伝えると、すぐに目を伏せた。
店員は、少し目を丸くした。
「パスタやデザートも、同じでよろしいですか?」
「かまいません。お願いします」
もう一度、簡潔に答えると、メニューをまとめて、店員に差し出す。
店員は、今度こそ「かしこまりました」と承諾すると、千草からメニューを回収して、店の奥へ引き返していった。
店員が去ると、再び、その場に静けさが戻った。
店内には、仕事帰りのOLや、夕食を取りに来た家族連れがまばらに居るだけで、さほど混んではいない。
そこかしこから聞こえてくる、カトラリーの触れ合う音。和やかな談笑。
漂う、コーヒーの香り。
――真正面には、千草。
「……試験って、言ってたね。まず、今日のこれは、どういう試験?」
逃げ場を失ったと悟ると、環は、どういうわけか、唐突にその疑問が口をついて出た。
千草は、環の問いかけに、ふっと視線を手元に落とした。
「私があなたの隣にいることが、あなたにとって負担ではないと、判断できるか」
答えながら、顔の前で、ゆっくりと手の指を組んでいく。
同時に、視線を環へ戻した。
「……私だけが試してるわけじゃ、ないんだ」
じっと観察しているような千草の眼差しを受けて、環は独り言のように呟いた。
「もしかして、文人くんも不安なの?」
続けてそう尋ねる環の声が、ほんの僅か、心許なさそうに揺れる。
「不安という表現は、適切ではありません」
だが、あくまで冷静に、千草は答えた。
「ただ――環さんが後悔する可能性は、排除したい。私と並んで歩くことを選ばなければ良かったと、そう思わせることだけは避けたい」
千草は、一つ小さく息を吐いた。
「そのための、確認です」
環に向かって話していながら、最後に放ったその言葉だけは、別の何かに対する宣告のようにも思えた。
環は「……そっか」と一言だけ返し、会話はそこで一度途切れた。
次回更新は8/8(土) 20時の予定です。




