第17章 運用テスト / 01
非常階段で千草と対話をした日から、あっという間に数日が過ぎた。
今日も、仕事のトラブルは何も起こらなかった。
鞄のファスナーを閉める音、椅子を引く音。終業時刻を迎えてすぐ、周囲には帰り支度を始める気配が満ちる。
千草の些細な言動に、環が過剰に気持ちを揺さぶられることも、ひとまず大分減った。
そろそろ、落ち着いて心の整理ができる頃合いなのかもしれない。
「月村さん」
そんなことを考えながら、環が退勤前のデスク整理をしていると、隣席に座っていた千草から声をかけられた。
「この後の予定はありますか」
環は、デスクの引き出しから、スマートフォンを取り出した。
念のためスケジュールアプリを確認したが、今日この時間以降の予定は、何も登録されていなかった。
「ううん、特にないよ」
「そうですか」
環の返事を聞くなり、千草は既に用意していた私用鞄を持って、椅子から立ち上がった。
そして、デスクの前で環に改めて向き直ると、続けて言った。
「少し、付き合ってください」
―――違和感。
無表情で佇んでいる千草の顔を見上げながら、環は、ほんの少し胸がざわついた。
仕事の都合上、こうして千草に同行を依頼されること自体は、よくあることだ。
しかし今回のように、目的も明らかにしないまま、ただそれだけを申し入れられるような場面は、今まで一度も無かったように思う。
「……うん、構わないけど」
僅かに間を置いて、若干躊躇いつつも、環は了承を示した。
千草は「ありがとうございます」と短く礼を言うと、すぐにオフィスのドアへ向かって歩き出した。
◇◇◇
「今日は、目的があって呼びました。確認です」
千草の後について行き、辿り着いた場所は、ビルを出てすぐの、屋外にある小さな休憩スペースだった。
千草は、設置されていた自動販売機から温かいお茶を2本購入すると、向かいのベンチに座っていた環に、その1本を差し出した。
「待つ、と言いましたが」
どきりと、心臓が鳴った。
十中八九、この話題だろうと予想はしていた。
しかしそれでも、受け取ったお茶の缶を握る手に、緊張から無意識に力が入る。
環は、続く千草の言葉を、固唾を飲んで待った。
「どこまで待てばいいのか、聞いておきます」
そう言い終えるなり、千草は、自分の分のお茶の蓋を開けた。
冷えた空気に、白い湯気が、たちまち立ち昇っていく。
環は、困惑に眉を顰めた。確かに、いつまでもというわけにはいかない。
だが、『期限は設けない』――確か、以前はそう言っていなかったか。
「……それは、期間ということ?」
首を傾げながらも、再度の確認として、質問する。
「いいえ」
しかし、千草は、はっきりと否定した。
「条件です。どうなれば、待つ必要がなくなりますか」
―――条件。
その言葉に、環は意表を突かれた。
「どうなれば……って、」
戸惑いながらそう繰り返した後、環は、言葉を失った。
待ってほしいという言葉は、軽率に口にしたわけではない。
だが、この先の具体的なイメージとなると、それはまだどうしても想像できないままだった。
考え込むこと、数十秒。
やがて、伏せていた目を上げて、環は、神妙な面持ちで口を開いた。
「……私が、」
分からなくても、ゆっくりでも、誠実に応えたい。
「千草くんと一緒にいてもいい人間だって思えたら…」
昔の記憶が、再び、脳内を明滅する。
しかし今はもう、思考を侵食されることはない。
「隣にいても…並んで歩いても、恥ずかしくない人間だって思えたら……」
口に出してから、自分がどれだけ曖昧で、一方的な基準を示しているのかに、気づく。
環は急に心苦しくなり、眉根を寄せ、苦い顔になった。
「……ごめんなさい。これは、千草くんのせいじゃない。私の問題なの……」
心底申し訳なさそうに言って、環は、頭を垂れた。
受け取った缶も開けずに握りしめたまま、それきり押し黙る。
「……理解しました」
俯く環を眺めて、飲んでいた缶から口を離すと、千草は短く言う。
「ただ一点、訂正します。私の判断基準に、月村さんの評価は含まれていません」
環は、ゆっくりと顔を上げた。常にこちらを見ていた千草と、目が合う。
「並んで歩くかどうかは、私が決めます。恥ずかしいと思ったことはありません」
何ということもないように放たれたその言葉を耳にして、環は「え…」と呟いて、目を丸くした。
しかし、千草は構わず、そのまま続けた。
「月村さんがどう思うかは自由です。ですが、私がどう感じるかも、私の判断です」
そこで一度、話を止めると、再び缶に口をつけた。
「――ですから、月村さんだけの問題ではありません」
そして、残っていたお茶を全て飲み干した後、平然とそう言い切る。
そんな千草とは対照的に、環はますます混乱に陥った。
無意識に囚われていた枷を、ようやく認識できたはずだった。だがそれを取り除くには、自分では力不足だと、否定された気分だった。
「……じゃあ、どうしたらいいかな……」
途方に暮れた環は、かすれた声で、千草にそう問いかけた。
「簡単です」
千草は、あっさりと答えた。
「試してください。私と並んで歩くことを、避けないでください。…それを続けて、問題があるか、判断してください」
―――『試す』。
千草の言葉が、環の中に、パズルのピースが埋まるように落ちていった。
それは、確かに、必要なことなのかもしれない。
判断するには、根拠が必要。
根拠は、データがなければ作れない。
仕事でも、いつもやっていることだ。そう、データ収集のために行う試験と思えば――
ようやく、道筋が見えたような気がした。
そして、一つ息を大きく吸い込んで――環は、心を決めた。
「じゃ、じゃあ……。千草くん、これから私と一緒にご飯食べに行ってもらってもいいかな?」
ほとんど勢い任せの、一か八かの提案だった。
空になった缶を捨てようとして、自販機の隣のゴミ箱に足を向けかけていた千草は、その瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……はい」
そして、何度か瞬きをした後、ゆっくりと環の方を振り向き、短く返事をする。
「試験として、適切です。場所の希望はありますか」
だがすぐに、いつもの調子に戻ると、すんなり了承の旨を示した。
続けて問いかけられた内容に、環は再び「ええっと…」と唸りながら、頭を抱えた。
「……ごめんね。私、あまり人と行けるようなお店、知らなくて。いつも行ってるカフェくらいしか…」
そこまで言って、環は何か閃いたように、はっと千草に視線を向ける。
「あ、そうだ。千草くんは、好きな食べ物とかないの?」
「特にありません」
即答。
「……環さんが、落ち着いていられる場所でかまいません」
千草はそう言って、今度こそ空の缶を、ゴミ箱に入れた。
「可能な限り、長く滞在できる店が望ましいです」
環の座るベンチの前まで戻ってくると、静かに言う。
しかしその時、環は、店選びとは全く別のことに意識を捉われていた。
呆気に取られたような顔で、千草の顔を凝視する。
「あの……今、名前……」
ぽつりと、小さく呟く。
聞き間違いで、なければ。
確かに、呼ばれた――『月村さん』ではなく、『環さん』、と。
千草は、視線を僅かに環から逸らした。
「……失礼しました」
目を逸らしたまま、淡々と、謝罪を述べる。
「不適切でしたか」
環は、慌てて頭を横に振った。
「うっ、ううん。びっくりしただけ。でも、急にどうして…?」
「今後は、試験実施にあたって、区別が必要だと判断しました」
「………」
その淡々とした言い分を聞いて、環は俯き、しばらく考え込んだ。
正直、釈然としない理屈だと思った。
しかし千草がそう言うならば、これも試験の一環のようなものと、考えた方がいいだろう。
環は、結局開けられなかった缶を、その温もりが移りきった手で、再び握りしめた。
「……………文人、くん」
――千草の動きと、周囲の空気が、一瞬、完全に止まった。
「……………はい」
長めの沈黙の後、ようやく、それだけ返す。
環がおそるおそる顔を上げると、千草は、既に会社の門扉の方を見て、背を向けていた。
「……店は、どちらでしょうか」
珍しく環と顔を合わせずにそう尋ねて、千草はそのままゆっくりと歩き出した。
次回更新は8/7(金) 20時の予定です。




