第16章 ウォームアップ
「おはようございます」
――翌日、千草の第一声となったその挨拶は、あまりにも、いつも通りだった。
朝、出勤してすぐに自分のデスクに向かった環は、既に隣席に座っていた千草に、先に声をかけられた。
その表情、姿勢、こちらを見上げる視線――何一つ、普段と変わったところはない。
昨日の非常階段での出来事は、もしかして、夢か何かだったのか。
環は、一瞬、自分の記憶を疑った。
「……おはよう」
デスクに荷物を置きながら、環は挨拶を返す。幸い、声は自然に出た。
しかし一方で、微弱な電流のような緊張が、ぴりぴりと、肌の上を走った気がした。
◇◇◇
午後になってから、環と千草は、会議室で明日の打ち合わせ準備を行っていた。
その最中、環は、たまたま千草に書類を渡そうとして、その指が微かに千草の手とぶつかった。
「……っ」
つい、反射的に手がびくりと跳ねる。
その反応に、視線を上げた千草と不意に目が合い、環は咄嗟に顔を背けた。
それを誤魔化すように、身体ごとテーブルに向き直り、別の書類に手を伸ばす。
テーブルの上に視線を落として、環は、小さく溜息を漏らした。
今日は朝から千草と目が合う度、似たような行動を、何度も繰り返している。
先日、ようやく自然な関係に戻れたばかりだというのに――またしても再発した課題に、環は、思わず眉間を押さえた。
「月村さん、15時です」
俯き、思考の海に沈み始めていた環は、千草のその声で、はっと我に返った。
「あ……そうだね」
腕時計を見ると、確かにちょうど15時になったところだった。
今日は、完全に忘れていた。
環と千草は、作業を一時中断すると、会議室を出て、廊下の窓際に並んだ。
窓へ向かう途中、特に会話はなく、並ぶ位置もいつもと同じ。
やがて訪れた白猫も、相変わらずだった。草むらで寝転がって、伸びをして、欠伸をする。
いつもなら、この時間だけは、一目見るだけで、その姿に心を奪われていた。
だが今日は、隣の気配がやけに近くに感じて、どうしても意識が散ってしまう。
環は、視線だけをゆっくりと、隣へ動かした。
無表情に、静かに外を眺めている、千草の横顔。
――今日の5分は、やけに長い。
「……集中していませんね」
ぽつりと呟かれたその言葉に、環の肩が僅かに揺れる。
「そ、そんなことないよ…」
そう言って、慌てて外に視線を戻すが、その目は泳いでいる。
窓の下の猫は、午後の陽の光をいっぱいに浴びて、少しうとうとし始めていた。
「無理に同じにしなくて、構いません」
ゆらゆらと振り子のように揺れる白い尻尾を、目で追いながら、千草にしてはゆったりとした口調で言う。
そこで改めて、思い知らされる。やはり、昨日のことは、夢などではなかった。
環は、何か言おうと口を開きかけるも、言葉が見つからず、再び閉じた。
「わっ、やっぱりいた」
すると突然、背後から、聞き覚えのある声が響いた。環と千草は、同時にゆっくりと、後ろを振り向く。
いつの間にか、廊下には、コーヒーを片手に持った片倉が立っていた。
二人分の視線を一気に浴びて、片倉は、少し面食らったような顔になった。
「ごめんごめん、邪魔するつもりじゃなくて」
軽い謝罪を述べながら、コーヒーを持っていない方の手を顔の前で振った。
しかしすぐに、昨日と同じように、ころころと笑いながら言う。
「この時間、名物だね、もう。本当に仲いいね」
『名物』という言葉に、環はなんとなく気恥ずかしい気持ちになり、思わず視線が足元に落ちた。
「えっ…と。目立ちますか、そんなに」
「うん、まあね」
片倉は、躊躇することもなく、あっさりと頷いた。
「そりゃあ、毎日毎日同じ時間に二人で並んでるし。しかも、ほとんど会話してないのに、空気できてるから余計に」
涼しい顔をして流暢に語っていたが、そこで一度、話を止めた。
「なんか……『二人だけの時間』って感じ?」
勿体ぶったように言い、今度は、千草の方へと視線を向ける。
からかうように、くすっと笑いを零した。
「ねえ、千草くん?」
突然水を向けられた千草は、しかし、全く動じることなく、はっきりと即答した。
「否定はしません。事実と異なる点がありません」
その発言に、片倉は、目を丸くした。
同時に、千草の横にいた環が、俯いたままぴくりと身体を揺らす。
「えっ、じゃあ、それって――」
「誤解を生む表現は避けてください」
急に目を輝かせ、少し興奮した様子で、再び喋り出す片倉。
しかし、すかさず千草が鋭く切り込んで、その言葉を遮る。
「関係は定義していません。ただ、自然とここにいます」
平然と、業務連絡と変わらない温度で、告げる。
片倉は、そんな千草をぽかんと見つめたまま、言葉を失っていた。
だがしばらくして、突然口元を手で押さえると、ぱっと顔を横に背けた。
「………そ、そういうやつね」
指の隙間から漏れたその声は、ひどく震えている。
吹き出しそうになるのを、必死で堪えているようだった。
「…邪魔してごめん。続けてどうぞ」
最後に小さく肩を震わせ、耐えきれない様子で、片倉はその場を逃げるように立ち去った。
後に残された環と千草の間に、再び、沈黙が生まれる。
環は、相変わらず俯いたまま、微動だにしなかった。
「訂正します」
やがて千草の淡々とした一言が、唐突に、沈黙を打ち破る。
「自然ではありません。優先してここにいます」
そう言って、ゆっくりと、再び窓の外に顔を向ける。
「…………そ、そう…………」
千草に続いて窓を振り向きながら、環は、最早それしか言えなかった。
窓枠に手を置いて、俯いたその表情は見えないが、耳は真っ赤に染まっている。
「無理に答えなくて構いません」
いつの間にか、草むらから起き上がっていた猫を眺めながら、千草は淡々と続けた。
うろうろと、気まぐれに周辺を歩き回る猫を、そのまま目で追いかける。
「変わりませんから」
それは随分と、自分にとって都合のいい台詞だと、環は思った。
――しかし、きちんと向き合いたい。そう、誓ったはずだ。
「……ううん。ちゃんと、待ってて」
環は顔を上げると、今日になって初めて、千草としっかりと視線を合わせた。
それは、ほんの数秒のことだったが、逃げなかったのは初めてだと、はっきりと分かった。
「……はい」
相変わらず無表情のまま、千草は、ただ静かに答えた。
その横、窓ガラス越しに、猫がビルの向こうへ歩いていく姿が見える。
環は、腕時計にそっと目を落とした。5分は、もう過ぎていた。
「……戻る?」
いつもならば千草が言うその台詞を、今日は、環が口にする。
「ええ」
千草は相槌を打つと、最後にもう一度、窓の外を振り返った。
「……ありがとうございます」
小さくなった猫の後ろ姿が、完全に消えるのを見届けて、千草はふと、ぽつりと呟く。
何に対する礼なのかも分からず、環は戸惑いながら、「えっ?」と聞き返した。
しかし、千草からの返事は、なかった。
千草はそのまま黙って、会議室への道を進み始めた。
昨日と同じく、環はすぐには千草を追わず、しばらくの間、ただその背中を見つめていた。
次回更新は7/31(金) 20時の予定です。




