第15章 ブート / 02
千草に促され、オフィスから出た環は、どこに向かっているかも分からぬまま、社内の廊下をただ歩いた。
その間、環はひたすら俯いて、交互に前へ進んでいく、自分のつま先だけをぼんやりと眺めていた。
しばらくして、数歩前を歩いていた千草の足音が、ぴたりと止む。
つられて立ち止まった環は、そこでようやく顔を上げた。
急に、視界が開ける。いつの間にか辿り着いていたのは、会社裏の非常口だった。
非常口の扉を開け、外に出る。
今日は、以前ここへ訪れた時のような、強い風は吹いていない。その代わり、前よりもずっと、空気が冷え込んでいた。
環が非常階段の前に立ったところで、横から千草が、再びその手を差し出す。
環は、千草に右手を引かれ、左手で杖をつき、ゆっくりと階段を上った。
冬の澄んだ空気の中、一段上がるごとに、ほんの少しずつだが、呼吸が整い始めた。
踊り場の冷たい手すりに掴まって、遠くの景色を眺めると、ようやく胸のつかえも下がる。
その環の後ろ姿を、一歩下がったところで、千草は無言で見つめていた。
そして、環の呼吸が安定し、ようやくその肩が上下しなくなったことを確認すると、そっと静かに告げる。
「……先ほどの会話、聞こえていました」
その一言で、再び、環の呼吸は止まりそうになる。
心臓が跳ね上がり、思わずよろけて倒れそうになるのを、手すりに掴まってどうにか耐えた。
「違います」
背後から、千草の静かな声が、更に続く。
「業務上の配慮ではありません。月村さん個人に対するものです」
環は、ゆっくりと後ろを振り返った。
千草は、少し離れた手すりの傍で、ただまっすぐにこちらを見つめて、立っている。
その表情からは、相変わらず、何を考えているのか全く読み取れない。
「千草くんは……優しいからね」
曖昧な笑いを浮かべながら、環は弱々しく言った。
「それも違います」
しかし、その曖昧さを断ち切るように、千草は再びはっきりと告げた。
「優しさではありません。選択です」
環は、千草のまっすぐな視線に耐えきれなくなり、そっと目を逸らした。
しばらくの間、沈黙が落ちる。
だがやがて、細く千切れそうな声で、ぽつりぽつりと、口を開く。
「千草くん、さ……簡単に人にそういうこと言うの、勘違いしちゃうから、やめた方がいいよ。私、人との距離感とか、気持ちとか………」
そこで一瞬、言葉に詰まる。
唾を飲み込むと、少しだけ息を吸い込んで、続けた。
「………恋愛とか。そういうの、得意じゃないから」
吐き出すように言い切った後、環の足は、今にも崩れ落ちそうに、ふらついていた。
手すりを握る手に、更に力を込めて、どうにか立ち続ける。
千草は、不意に目を伏せた。
そして、数秒。
「勘違いではありません」
――ほんの一瞬、目の前で、風が吹き抜けた。
「…………え…………」
環の喉奥から、声にならない小さな呻きが漏れる。
瞳を、こぼれ落ちそうなほどに大きく見開いて、ただただ呆然と、千草の顔を見つめた。
張り詰めたような静けさが、満ちる。
目の前を通り過ぎた風が、ビルの間を流れていく、ひゅうという小さな音が、はっきり聞き取れるほど。
言葉を失い続ける環に、千草は、一つ息を吐くと、口を開いた。
「……受け取れないなら、それで構いません」
再び、視線を上げ、環に目を合わせる。
「変わりませんので」
その言葉の意味を理解しかねて、環は僅かに眉を顰め、「えっ…?」と短く聞き返した。
千草は、視線を環から外さないまま、迷いなく答えた。
「月村さんが受け取らなくても、理解できなくても、選択は取り消しません」
そして、手のひらを上に向け、環にそっと差し出す。
「月村さんがどう扱うかは、任せます」
こんな時でさえ、決定権は、変わらずに明示された。
千草の視線と言葉に、環は金縛りにあったように、動くことができなかった。
しかし最後の言葉を聞いた瞬間、動揺しながらも、無意識に肩の力が抜ける。
呼吸も、少しだけ落ち着きかけた――その時だった。
『……ねえ、環。後悔だけはしないようにね』
脳裏に、声が響く。
耳に馴染む、親友の声。
昔からずっと傍にあった、明るい笑顔。
―――私は、
心臓が、どくりと、一際大きく鳴る。
―――本当に、このままでいいのだろうか。
ブラウスの胸元を、ぎゅっと引き絞るように、握る。
胸の内側から、何かに追い立てられているような感覚だった。
「………少し、時間欲しい」
ようやくそれだけ、絞り出す。
小さく、しかし確実に積み上がって、今この瞬間、自分の中で芽吹いたもの。
それが、この場ですぐに結論を出すことを、許してくれなかった。
環のその答えは想定していなかったのか、千草は僅かに目を見開いた。
「…分かりました。期限は設けません」
しかしすぐに、そう小さく告げる。
千草は続けて、「想定以上に冷えます、早めに中に入りましょう」と言うと、手すりから身体を離した。
階段を下りていく千草を、環は、すぐには追わなかった。
踊り場から、数秒ほど、その背中をじっと見据える。
―――向き合わなきゃ。
呼吸も、鼓動も、既に落ち着いていた。
最後にもう一度胸に手を当てて、それを確かめると、環は一歩、前へ踏み出す。
非常階段を下りる最中、踏板を杖がつく度に鳴る金属音が、やけに、耳に響いていた。
次回更新は7/24(金) 20時の予定です。




