表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第3編 萌芽
PR
27/35

第15章 ブート / 02

千草に促され、オフィスから出た環は、どこに向かっているかも分からぬまま、社内の廊下をただ歩いた。

その間、環はひたすら俯いて、交互に前へ進んでいく、自分のつま先だけをぼんやりと眺めていた。

しばらくして、数歩前を歩いていた千草の足音が、ぴたりと止む。

つられて立ち止まった環は、そこでようやく顔を上げた。

急に、視界が開ける。いつの間にか辿り着いていたのは、会社裏の非常口だった。


非常口の扉を開け、外に出る。

今日は、以前ここへ訪れた時のような、強い風は吹いていない。その代わり、前よりもずっと、空気が冷え込んでいた。


環が非常階段の前に立ったところで、横から千草が、再びその手を差し出す。

環は、千草に右手を引かれ、左手で杖をつき、ゆっくりと階段を上った。

冬の澄んだ空気の中、一段上がるごとに、ほんの少しずつだが、呼吸が整い始めた。

踊り場の冷たい手すりに掴まって、遠くの景色を眺めると、ようやく胸のつかえも下がる。


その環の後ろ姿を、一歩下がったところで、千草は無言で見つめていた。

そして、環の呼吸が安定し、ようやくその肩が上下しなくなったことを確認すると、そっと静かに告げる。


「……先ほどの会話、聞こえていました」


その一言で、再び、環の呼吸は止まりそうになる。

心臓が跳ね上がり、思わずよろけて倒れそうになるのを、手すりに掴まってどうにか耐えた。


「違います」


背後から、千草の静かな声が、更に続く。


「業務上の配慮ではありません。月村さん個人に対するものです」


環は、ゆっくりと後ろを振り返った。

千草は、少し離れた手すりの傍で、ただまっすぐにこちらを見つめて、立っている。

その表情からは、相変わらず、何を考えているのか全く読み取れない。


「千草くんは……優しいからね」


曖昧な笑いを浮かべながら、環は弱々しく言った。


「それも違います」


しかし、その曖昧さを断ち切るように、千草は再びはっきりと告げた。


「優しさではありません。選択です」


環は、千草のまっすぐな視線に耐えきれなくなり、そっと目を逸らした。

しばらくの間、沈黙が落ちる。

だがやがて、細く千切れそうな声で、ぽつりぽつりと、口を開く。


「千草くん、さ……簡単に人にそういうこと言うの、勘違いしちゃうから、やめた方がいいよ。私、人との距離感とか、気持ちとか………」


そこで一瞬、言葉に詰まる。

唾を飲み込むと、少しだけ息を吸い込んで、続けた。


「………恋愛とか。そういうの、得意じゃないから」


吐き出すように言い切った後、環の足は、今にも崩れ落ちそうに、ふらついていた。

手すりを握る手に、更に力を込めて、どうにか立ち続ける。


千草は、不意に目を伏せた。

そして、数秒。


「勘違いではありません」


――ほんの一瞬、目の前で、風が吹き抜けた。


「…………え…………」


環の喉奥から、声にならない小さな呻きが漏れる。

瞳を、こぼれ落ちそうなほどに大きく見開いて、ただただ呆然と、千草の顔を見つめた。


張り詰めたような静けさが、満ちる。

目の前を通り過ぎた風が、ビルの間を流れていく、ひゅうという小さな音が、はっきり聞き取れるほど。


言葉を失い続ける環に、千草は、一つ息を吐くと、口を開いた。


「……受け取れないなら、それで構いません」


再び、視線を上げ、環に目を合わせる。


「変わりませんので」


その言葉の意味を理解しかねて、環は僅かに眉を顰め、「えっ…?」と短く聞き返した。

千草は、視線を環から外さないまま、迷いなく答えた。


「月村さんが受け取らなくても、理解できなくても、選択は取り消しません」


そして、手のひらを上に向け、環にそっと差し出す。


「月村さんがどう扱うかは、任せます」


こんな時でさえ、決定権は、変わらずに明示された。


千草の視線と言葉に、環は金縛りにあったように、動くことができなかった。

しかし最後の言葉を聞いた瞬間、動揺しながらも、無意識に肩の力が抜ける。


呼吸も、少しだけ落ち着きかけた――その時だった。


『……ねえ、環。後悔だけはしないようにね』


脳裏に、声が響く。

耳に馴染む、親友の声。

昔からずっと傍にあった、明るい笑顔。


―――私は、


心臓が、どくりと、一際大きく鳴る。


―――本当に、このままでいいのだろうか。


ブラウスの胸元を、ぎゅっと引き絞るように、握る。

胸の内側から、何かに追い立てられているような感覚だった。


「………少し、時間欲しい」


ようやくそれだけ、絞り出す。

小さく、しかし確実に積み上がって、今この瞬間、自分の中で芽吹いたもの。

それが、この場ですぐに結論を出すことを、許してくれなかった。


環のその答えは想定していなかったのか、千草は僅かに目を見開いた。


「…分かりました。期限は設けません」


しかしすぐに、そう小さく告げる。

千草は続けて、「想定以上に冷えます、早めに中に入りましょう」と言うと、手すりから身体を離した。


階段を下りていく千草を、環は、すぐには追わなかった。

踊り場から、数秒ほど、その背中をじっと見据える。


―――向き合わなきゃ。


呼吸も、鼓動も、既に落ち着いていた。

最後にもう一度胸に手を当てて、それを確かめると、環は一歩、前へ踏み出す。

非常階段を下りる最中、踏板を杖がつく度に鳴る金属音が、やけに、耳に響いていた。

次回更新は7/24(金) 20時の予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ