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隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第3編 萌芽
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第15章 ブート / 01

環と千草の間にあったわだかまりが解消してから、早いもので、一週間以上が経った。

あれから千草は、仕事でも身の回りの面でも、以前と同様に、環のサポートを続けている。

環の方も、今では何の抵抗もなく、それを受け入れるようになった。更に、処理しきれない仕事の一部を、少しずつ千草に振るようになってから、環の体調は明らかに安定し始めていた。


最近では、業務上の大きなトラブルも、特に起こってはいない。

平穏で、安定した、穏やかな日常。

それはきっと、今後も変わることなく続いていく――環は、何故かそう、疑うことなく思い込んでいた。


「ねえ、月村さん。ちょっといい?」


とある日の昼休み。

昼食を終えた環が、自分のデスクに戻ろうと、オフィス前の廊下を歩いている時のことだった。

突然背後から、聞き慣れない声に、名前を呼ばれた。


環が振り向くと、数メートルほど離れたところで、こちらを見つめて立ち止まっている女性の姿があった。

運用サポート部の同僚では、決してない。

だが、どこか、見覚えがある女性だった。


環は、思わず黙り込んで、じっとその女性を観察した。

しばらくして、不意にその胸に下げられた社員証の、『総務部 片倉』の文字が目に入る。

そこでようやく、女性の正体を思い出す。確か、少し前に備品発注を総務部に依頼した際に、申請受付をしてくれた社員だ。


「……お疲れさまです、片倉さん。私に、何かご用でしょうか」


長い沈黙の末、ようやく返された環の言葉。それはひどく事務的だったが、片倉は気にせず、愛想よくにっこりと微笑んだ。

だが、細められたその目の奥は、どこか笑っていないような気がする。

口角が上げられた瞬間、ちらりと覗く、尖った八重歯。

環は、無意識に身構え、抱えていた書類の端を握りしめた。


しかし片倉は、そんな環の様子には一切気づかずに、軽い調子で話を続けた。


「いや、全然大したことじゃないんだけど。最近さ、毎日15時になると、あそこに千草くんと一緒に立ってるよね」


そう言って、環の背後に位置している、廊下の突き当たり、いつもの窓際を指差す。


「仲、いいんだね」


片倉は、手を口元に添え、可笑しそうにころころと笑っていた。

そして、出し抜けに、やはり軽い調子で言う。


「付き合ってるの?」


――その瞬間、環の手に抱えられていた書類が、ばさりと、全て床に落ちた。


「えっ!?あっ、ごめんごめん!」


仰天した片倉は、慌てて謝罪しながら、環の足元に駆け寄った。

環は、それに一拍遅れて、弱々しい声で「……すみません」と呟きながら、よろよろとその場にしゃがみ込む。

そして、落とした大量の書類を、震える手で、片倉と一緒に拾い始めた。


「……いえ、あの。そういう関係では、ないです」


視線を床に向けたまま、どうにか先ほどの質問に答える。

その声は、手同様に、僅かに震えている。心臓が煩いほど、波打っている。


「あ、そうなんだ?いやでも雰囲気がさ、なんか特別っぽいというか」


書類を拾いながら、先ほどより少し穏やかな声色で、片倉は言った。


「千草くん、月村さんにだけ、他の人と全然態度が違うしね」


――その言葉が、環の胸を、細い針のように鋭く貫いた。


「えっ……?」


思わず顔を上げて、聞き返す。

環のその反応に、片倉は一瞬手を止めると、環と視線を合わせて、再び可笑しそうにくすくすと笑った。


「だって、月村さんに対してはすごく優しいし、親切にしてるじゃん。千草くん、他の人にはあんな感じじゃないよ?」


当たり前のような口調で言い切る片倉に、環は一瞬、呆然として固まった。

千草が、自分に対し、仕事上の関係にしては、やけに優しく親切であることは分かっていた。

しかし、それは――


「それは……私が、この身体だから。同僚として、彼も気を使ってくれているんだと思います」


再び俯き、抑揚のない低い声で、環は答えた。

それに、片倉は少しだけ困ったような、不可解そうな顔をする。


「…うーん。そういうのとは、違う気がするけどなぁ」


歯にものが詰まったような言い方だった。

環はもう、何も答えなかった。数十秒間、沈黙の中、ただ書類が擦れる音だけが響く。

片倉は、少し肩をすくめると、自分が拾った書類をまとめて、環に差し出した。


「まっ、いいや。ごめんね、変なこと聞いて」


そして、最後は割り切ったように明るくそう言うと、足早にその場を立ち去った。



◇◇◇



片倉と別れた後、環はまっすぐに自分のデスクに戻った。

しかし、午後の仕事が始まってすぐ、その手の動きはひどく鈍くなり、視線は足元に落ちる。


いつかの夢が、古い記憶が、ぐるぐると、再び脳内に浮かび上がってくる。


――『すごくいい子なんだけど、恋愛対象としてはちょっと…』

――『ぶっちゃけ言って、彼女にして隣歩くとかは、恥ずかしい』


環は、口元を手で押さえた。

また、胃の奥底で、身に覚えのある不快感が生まれ始めている。

呼吸が浅くなり、視界の端に映る書類の文字がじんわりと揺れ始める。


「月村さん、顔色が悪いです」


しかし突然、頭上からそう声をかけられて、環はゆっくりと視線を上げた。

いつの間にか席を立っていた千草が、環を見下ろす格好で、その瞳を覗き込んでくる。


「少し、外へ出ましょう」

「………」


そう言って、手をそっと差し出す。

環は、千草の手に掴まって立ち上がると、言われるがままに、ふらふらとその背中についていった。

次回更新は7/17(金) 20時の予定です。

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