第14章 再接続
始業時刻まで残り数分、運用サポート部オフィスの入り口前。
そこには、一昨日と全く同じ光景――またしても扉のドアノブを握りしめて動かない、環の姿があった。
扉の奥から僅かに漏れてくる社員たちの話し声の中に、いつも隣席から届く淡々とした声を、無意識に探す。
しかし、いくら耳を澄ましても、それらしい声は聞こえてこない。
環は小さく肩を落とすと、ドアノブを握り直し、ようやく目の前の扉をそっと開いた。
扉を開けた環は、すぐに周囲に視線を巡らせた。
オフィス全体。
雑談している男性社員。身だしなみの最終チェックをする女性社員。
自分のデスク。そして、その横に、視線を移す。
―――隣席は、空のまま。
「………」
環は、俯いて足元を見つめながら、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
ゆっくりとデスクに向かい、腰をかけると、すぐにパソコンを立ち上げる。
社内チャットをチェックしたが、今日は、何の連絡も届いていなかった。
環は、昨日から何度もそうしていたように、隣を振り向こうと、顔を上げた――その瞬間だった。
「おはようございます」
――背後から突然、つい先ほど部屋に入るまで探していた声が、響いてくる。
環の身体が、見てはっきり分かるほどに、びくりと跳ねた。
「……お、おはよう……」
驚きに見開かれたままの目で、おそるおそる後ろを振り返る。
そこには、無機質な表情、異様に整えられたスーツ姿――普段と何ら変わらない様子で、姿勢よく直立している千草の姿があった。
「昨日は不在対応、ありがとうございました。例の件、無事システム復旧し、解決しました」
淡々と報告しながら、千草は、自席の椅子に座った。
「そ、そう……よかった……」
環は、心底ほっとした様子で、そう感想を漏らした。
よくある業務トラブルにしては、やけに強く張り詰めていた緊張が、ようやく解消される。
「はい。今日は、体調に問題ありませんか」
いつもの確認。
だが今日は、全く躊躇することなく、自然に尋ねてくる。
「うん、大丈夫…」
「承知しました」
環の返事に、端的に了解を示した千草は、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
素早く何かの操作を行ったかと思うと、画面ディスプレイを上に向けて手のひらに乗せ、そっと環に差し出す。
「本日は在籍です。15時は空いています」
環は、千草のスマートフォンを覗き込んだ。
シンプルな、スケジュールアプリの画面。開かれているのは、今日の詳細な予定一覧。
その中の15時の欄には、『用件:休憩 場所:廊下の窓際』と入力がされている。
「来ますか」
静かに、問いかけられる。
「………うん」
環は、スマートフォンの画面から視線を動かすことのないまま、そう小さく答えた。
◇◇◇
環の仕事は、昨日、一昨日とほぼ変わることなく、順調に進んだ。
しかし、隣で千草が動く気配を感じる度、昨日まで強張っていたその肩からは、明確に力が抜けていった。
昼休みを挟み、午後になる。
環は、壁時計に視線を投げながら、飲み残していたコーヒーのカップに口をつけた。
今日のコーヒーは、千草が淹れてくれたものだった。
コーヒーを口の中に一口含んで、環はふと思い立ち、すぐには飲み下さず、その味を確かめる。
やはりどういうわけか、甘さは、一昨日と同様に戻っている。
14時45分。環の視線が、自然に、廊下の窓の方角を向く。
14時55分。千草が、シャツの袖を捲り、腕時計を確認した。
14時59分。千草が立ち上がる。それに続くように、環もゆっくりと立ち上がり、杖を取った。
環と千草は、お互いのデスクの前に立ち、正面から向かい合った。
「15時です」
環の目を見つめて、千草は、静かに告げた。
その後、環と千草は、何も言葉を交わすことのないまま、まっすぐに廊下の窓際へ向かった。
途中、オフィスの出入口で千草はドアを開け、そのまま支え、環が先に出ていくのを待つ。
環は抵抗なくその配慮を受け取り、軽く礼を言うと、肌寒い廊下に出た。
――そして、廊下の突き当たりまで辿り着くと、窓際に、二人で並んだ。
それをしたのは、一体何日ぶりかも分からなかったが、今までずっと変わらず続けていたことのように、違和感一つ感じない。
だが、昨日とは違い、隣が空っぽではない気配に、空気が温まるような気がする。
少し待っていると、白猫が、ビルの影からひょっこりと顔を出した。
ぽてぽてと身体と尻尾を揺らしながら、迷いなく、窓の方へ近づいてくる。
やがて窓の手前までやってきて立ち止まると、昨日と同じように、行儀よく前足を揃えて座り込む。
白猫は、そのまま微動だにせず、窓越しに千草と環をじっと見つめた。
だがしばらくして突然、耳だけをぴくりと震わせる。
そして、大きく口を開けると、「にゃあ」と一つ、鳴き声を上げた。
「両名在籍、確認されました」
すっかりいつもの調子で、ごろごろとくつろぎ始めた猫を眺めながら、千草が淡々と述べる。
「直近の不在は、問題無しと判断されたようです」
その、なんと表現しようもない、まるでシステム稼働報告書を読み上げているような千草の言い方に、環はぷっと吹き出した。
口を手で押さえながら、堪えきれず、「ふふふっ」と声を上げて笑い出す。
「……よかったね」
未だに収まらない笑いに少しだけ声を震わせながら、環は、そうぽつりと感想を述べた。
「……安心しました」
そんな環の様子を横から見つめながら、千草が、口の中でぼそりと呟く。
その囁き声は当然、環の耳までは届かなかったようで、環が反応を示すことはなかった。
「昨日、ここに来ました」
しかし、唐突に。今度ははっきりと、環に向けて、千草はそう告げた。
「え?でも、千草くん、昨日は終日外出してて、不在だったでしょう」
首を傾げながら、環は聞き返した。
昨日は一日中、社内で仕事をしていたが、千草の姿は一度も見ていないはずだ。
「15時過ぎに、一度。移動で会社前を通り過ぎる際、ここに戻りました。建物内には入っていません」
千草は、窓の外、そのずっと向こう側の空間を指差しながら、説明を加えた。
その言葉を聞いた環は、「…ええっ?」と困惑と驚きの声を上げる。
しかしすぐに、大きく息を吐き出すと、呆れ交じりに言った。
「なんで、わざわざそんなことを……」
「確認です。白いのが来ているか」
そう言いながら、身体を伸ばして欠伸をしている猫に、千草は視線を落とした。
「…会ってあげたら良かったのに。あの子、千草くんを待ってたよ」
昨日の、ただただ隣の空白を見つめ、首を傾げていた猫の姿を思い出し、環は僅かに眉尻を下げる。
「いいえ。必要ないと判断しました」
しかし、千草は、きっぱりと断言した。
「月村さんが居ましたので」
「……私?」
「はい。私だけではありません。あれは、月村さんも待っています」
千草は『あれ』という単語とともに、今度は猫を軽く指差す。
「ここは、月村さんの場所でもあります」
――その言葉に、環の瞳が、微かに揺らいだ。
何か答えようとして口を開くも、胸の奥で詰まって結局言葉にならず、押し黙る。
「明日も、15時です」
俯く環に、千草は、まっすぐに視線を向ける。
「私もいます」
その静かな宣言に、環は「……うん」と、ほとんど囁くような声で答えた。
ゆっくりと顔を上げ、ひんやりとした窓ガラスに、手のひらをあてる。
窓の向こうに視線を戻す。それとほぼ同時に、猫は草むらから立ち上がった。
そして、ほんの一瞬、環に向かって満足そうに目を細めて、すぐにビルの向こうへと消えていった。
◇◇◇
その日から、環と千草の間に生じていた溝は埋まり、関係は以前のとおりに戻った。
――ただ、完全に元通りにならなかったものも、一つだけあった。
「……千草くん」
数日後の業務時間中、環は、ひどく緊張した面持ちで、隣席で仕事をしていた千草に声をかけた。
千草は、すぐに「はい」と返事をして、環の方を振り向く。
「あの…本当に、もし時間があったらで、いいんだけど。……これ、お願いできるかな」
ほんの少し、震えを含んだ声。環は、遠慮がちに、手に持っていた書類をそっと千草に差し出した。
千草は、僅かに目を見開き、数秒その動きを止め、食い入るようにその書類を見つめた。
―――環が、自分の仕事を千草に頼んだのは、これが初めてのことだった。
珍しく言葉に詰まった千草に、環の目が、急に不安そうに泳ぐ。
「……承知しました」
だが、環の手が下がりかけたその直前で、千草は即座に書類を受け取り、了承の旨を返す。
環は、「あ、ありがとう…」と慣れない様子で礼を言い、微かに微笑んだ。
千草は、受け取った書類にすぐに目を通すと、早速、作業に取りかかった。
作業中、デスクに広げた書類を見つめるその瞳は、どこか満足そうに、柔らかく細められているように見えた。
次回更新は7/10(金) 20時の予定です。




