第13章 コミット / 02
『おはようございます。昨日のオンライン会議で対応した件の継続調査で、本日、現地に直行します』
通勤途中の電車に揺られながら、環は、スマートフォンの社内チャットアプリで、その文面を確認していた。
――朝一番で、千草から送られてきた業務連絡。
昨日の件は、結局、当日のオンライン会議だけでは解決に至らなかったようだ。
すぐに『了解しました』と返事を打つと、チャットアプリを閉じる。
そのまま駅に到着するまで、環は、鞄の中でスマートフォンを無意識に握りしめ続けていた。
出社して、すぐに自分のデスクへ向かう。
当然、千草は不在のまま。
環は身の回りの整理を終えると、始業時間を迎えるまで、なんとなく千草の席に視線を向けた。
業務の都合で、どちらか一方だけ席を外すなど、よくあることだ。
それなのに今日は、隣の空間が、そこだけ切り取られてしまったように、静かに感じる。
環は自席のモニターに向き直ると、机の脇に置いたマグカップを手に取った。
今朝、自分で淹れたコーヒー。
しかし一口飲んで、違和感にすぐ唇を離す。
視線を落とし、その黒い水面を、じっと見つめる。
――コーヒーは、昨日よりずっと、苦かった。
◇◇◇
(……15時だ)
それは、普段なら千草の呼びかけで気づくことだった。
だが今日に限っては、自ずと思い浮かぶ。目的もなく、一日中何度も時計を確認していたからだ。
そしてふと、隣の空席に視線を向けた。これも、今朝から何度となく繰り返していることだった。
少しの逡巡の後、環はふらりと立ち上がると、一人、オフィスの外へと出ていった。
久しぶりに眺める、廊下の窓際からの光景。
思えば、15時に一人でここに来るのは、初めてのことだった。
デスクに座っていた時と変わらず、環はつい、隣を振り向いた。視界に入るその空気が、窓枠の金属から感じる気配が、やけに寒々しい。
やがて、白猫がやってきた。
昨日とは違い、今日は、素通りはしなかった。
しかし今度は、どれだけ待っていても、いつものように草むらの上でくつろぎ始めない。
ただ前足を揃えて、行儀よく座り込み、首を傾げながら、環の隣の空白を見ている。
「……千草くん、今日も居ないの」
やがて環が、窓越しに、そんな猫に向かってぽつりと独り言を呟いた。
窓枠に肘を乗せ、頬杖をつく。
「寂しい?ごめんね」
そう語りかける環の瞳は、猫ではなく、その向こう側を見ているようだった。
しばらくして、猫は耳をピクリと震わせたかと思うと、唐突に立ち上がる。
結局今日は、それ以上何をすることもなく、猫はビルの向こうへ立ち去って行った。
◇◇◇
定時を迎えた後も、環はしばらくそのまま席に残って、仕事を続けていた。
正直なところ、残業をする程の量の仕事など、今日は無かった。
しかし隣の空席が目に入る度、その場から立ち去る気が失せてしまい、仕方なく作業を続けざるを得なかった。
しばらくして、パソコンの画面上で、通知のポップアップが表示される。
『お疲れさまです。長引きそうですので、本日直帰します』
再び、千草からの業務連絡、だった。
その通知が視界に入った瞬間、環は少しだけ、肩を落とす。
そこでようやく、作業の手が止まった。
その日の帰り道、環は珍しく、理由もなく寄り道をしたくなった。
しかし行く宛もなく、一昨日休みを取った際に行った公園のことをなんとなく思い出し、足を運んだ。
公園に入るなり、まっすぐ、猫の居ついているらしい木陰へと向かう。
だが、今日は猫の姿は無かった。
木の根元。草の影。公園のベンチの下。
既に日は落ち、暗闇が広がる中、環は、木陰だけでなく公園中をあちこち探し回った。
やがて、僅かに残っていた周囲の人気が完全に無くなった頃、環は、疲労からベンチに座り込んだ。
ふと見上げた漆黒の夜空には、くっきりとした半月が浮かび、多くの星が瞬いている。
猫は、結局見つからない。
深い溜息をつき、諦めて家に帰ろうと、立ち上がりかけて――ふと、思い立つ。
鞄からスマートフォンを取り出し、電源を入れる。
社内チャットアプリのアイコンに、指が引き寄せられる。
アイコンを押すと、宛先一覧から『千草 文人』の名前を参照し、指定する。
トーク画面のテキストボックスを開き、すぐに本文の入力を始めた。
カツ、カツ、と、爪がディスプレイにぶつかる小さな音を鳴らしながら、いつになく慎重にゆっくりと、文章を打っていく。
―――『明日は、会社にいますか?』
そのまま、送信ボタンに指が行き――しかし、触れる直前で、ぴたりと止まった。
しばらく、無言で画面を見つめる。
それは数秒か、はたまた、数分のような気もした。
やがて指は、そろそろと送信ボタンから離れ、再び、本文の最後尾へ触れた。
続けてバックスペースキーをそっと押し、そのまま、離さない。
作成した文章が、するすると消え去っていく。
元通り真っ白になった入力画面を、しばらくじっと眺める。
しかしその画面の白さが目に痛くなってきたところで、環はスマートフォンの電源を落とすと、鞄にしまい込み、今度こそ帰路についた。
帰り道、ついさっき自分が打った文章はいつまでも脳裏にこびりつき、スマートフォンの入力画面のように、真っ白に消えてはくれなかった。
次回更新は7/3(金) 20時の予定です。




