表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第2編 断裂
PR
24/34

第13章 コミット / 02

『おはようございます。昨日のオンライン会議で対応した件の継続調査で、本日、現地に直行します』


通勤途中の電車に揺られながら、環は、スマートフォンの社内チャットアプリで、その文面を確認していた。

――朝一番で、千草から送られてきた業務連絡。

昨日の件は、結局、当日のオンライン会議だけでは解決に至らなかったようだ。

すぐに『了解しました』と返事を打つと、チャットアプリを閉じる。

そのまま駅に到着するまで、環は、鞄の中でスマートフォンを無意識に握りしめ続けていた。


出社して、すぐに自分のデスクへ向かう。

当然、千草は不在のまま。

環は身の回りの整理を終えると、始業時間を迎えるまで、なんとなく千草の席に視線を向けた。

業務の都合で、どちらか一方だけ席を外すなど、よくあることだ。

それなのに今日は、隣の空間が、そこだけ切り取られてしまったように、静かに感じる。


環は自席のモニターに向き直ると、机の脇に置いたマグカップを手に取った。

今朝、自分で淹れたコーヒー。

しかし一口飲んで、違和感にすぐ唇を離す。

視線を落とし、その黒い水面を、じっと見つめる。


――コーヒーは、昨日よりずっと、苦かった。



◇◇◇



(……15時だ)


それは、普段なら千草の呼びかけで気づくことだった。

だが今日に限っては、自ずと思い浮かぶ。目的もなく、一日中何度も時計を確認していたからだ。

そしてふと、隣の空席に視線を向けた。これも、今朝から何度となく繰り返していることだった。

少しの逡巡の後、環はふらりと立ち上がると、一人、オフィスの外へと出ていった。


久しぶりに眺める、廊下の窓際からの光景。

思えば、15時に一人でここに来るのは、初めてのことだった。

デスクに座っていた時と変わらず、環はつい、隣を振り向いた。視界に入るその空気が、窓枠の金属から感じる気配が、やけに寒々しい。


やがて、白猫がやってきた。

昨日とは違い、今日は、素通りはしなかった。

しかし今度は、どれだけ待っていても、いつものように草むらの上でくつろぎ始めない。

ただ前足を揃えて、行儀よく座り込み、首を傾げながら、環の隣の空白を見ている。


「……千草くん、今日も居ないの」


やがて環が、窓越しに、そんな猫に向かってぽつりと独り言を呟いた。

窓枠に肘を乗せ、頬杖をつく。


「寂しい?ごめんね」


そう語りかける環の瞳は、猫ではなく、その向こう側を見ているようだった。

しばらくして、猫は耳をピクリと震わせたかと思うと、唐突に立ち上がる。

結局今日は、それ以上何をすることもなく、猫はビルの向こうへ立ち去って行った。



◇◇◇



定時を迎えた後も、環はしばらくそのまま席に残って、仕事を続けていた。

正直なところ、残業をする程の量の仕事など、今日は無かった。

しかし隣の空席が目に入る度、その場から立ち去る気が失せてしまい、仕方なく作業を続けざるを得なかった。


しばらくして、パソコンの画面上で、通知のポップアップが表示される。

『お疲れさまです。長引きそうですので、本日直帰します』

再び、千草からの業務連絡、だった。


その通知が視界に入った瞬間、環は少しだけ、肩を落とす。

そこでようやく、作業の手が止まった。



その日の帰り道、環は珍しく、理由もなく寄り道をしたくなった。

しかし行く宛もなく、一昨日休みを取った際に行った公園のことをなんとなく思い出し、足を運んだ。


公園に入るなり、まっすぐ、猫の居ついているらしい木陰へと向かう。

だが、今日は猫の姿は無かった。

木の根元。草の影。公園のベンチの下。

既に日は落ち、暗闇が広がる中、環は、木陰だけでなく公園中をあちこち探し回った。


やがて、僅かに残っていた周囲の人気が完全に無くなった頃、環は、疲労からベンチに座り込んだ。

ふと見上げた漆黒の夜空には、くっきりとした半月が浮かび、多くの星が瞬いている。

猫は、結局見つからない。

深い溜息をつき、諦めて家に帰ろうと、立ち上がりかけて――ふと、思い立つ。


鞄からスマートフォンを取り出し、電源を入れる。

社内チャットアプリのアイコンに、指が引き寄せられる。

アイコンを押すと、宛先一覧から『千草 文人』の名前を参照し、指定する。

トーク画面のテキストボックスを開き、すぐに本文の入力を始めた。

カツ、カツ、と、爪がディスプレイにぶつかる小さな音を鳴らしながら、いつになく慎重にゆっくりと、文章を打っていく。


―――『明日は、会社にいますか?』


そのまま、送信ボタンに指が行き――しかし、触れる直前で、ぴたりと止まった。

しばらく、無言で画面を見つめる。

それは数秒か、はたまた、数分のような気もした。


やがて指は、そろそろと送信ボタンから離れ、再び、本文の最後尾へ触れた。

続けてバックスペースキーをそっと押し、そのまま、離さない。

作成した文章が、するすると消え去っていく。


元通り真っ白になった入力画面を、しばらくじっと眺める。

しかしその画面の白さが目に痛くなってきたところで、環はスマートフォンの電源を落とすと、鞄にしまい込み、今度こそ帰路についた。


帰り道、ついさっき自分が打った文章はいつまでも脳裏にこびりつき、スマートフォンの入力画面のように、真っ白に消えてはくれなかった。

次回更新は7/3(金) 20時の予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ