第13章 コミット / 01
環が休みを取った、その翌日。
朝、出社した環は、運用サポート部のオフィスの扉の前で、ドアノブを握ったままその動きを止めていた。
冷たかったドアノブは、手のひらの体温で徐々に温まり始めている。
ちらりと、腕時計を確認する。始業時間は、もう目前まで迫っていた。
意を決して、扉を開く。
しかし、視界に飛び込んできたオフィスの光景は、拍子抜けする程にいつも通りだった。
始業前のざわつく空気の中、環は、まず上司に休みの礼を伝え、その後、自席へと足を向けた。
足を進めながら、隣席にも目を向ける。
――千草は、既に出勤していた。
少しずつ心臓の鼓動が速くなり、足取りが遅くなっていく。
デスクに向かう千草のすぐ後ろまで辿り着くと、環は、一度足を止めた。
息を、吸い込む。
「千草くん、おはよう」
何でもない、朝の挨拶。
しかしそのたった一言が、思いのほかすんなりと出てきたことに、環は内心、胸を撫でおろしていた。
「おはようございます」
千草は振り向くと、いつも通りの無表情で、静かに挨拶を返した。
「……昨日は、お休みをありがとう」
「問題ありません」
改めて礼を伝えると、やはり昨夜のチャット同様に、簡潔に返される。
環は、息を深く吐き出しながら、デスクに向かい腰をかけた。ようやく、全身から余計な力が抜ける。
そしてすぐに、パソコンを起動すると、仕事の準備を始めた。
「月村さん」
だが、そんな環の様子を見て、千草は再び、ゆっくりと口を開く。
「………今日の体調は、いかがですか」
――その問いかけは、一体、いつ以来だったのか。
環はぴたりと作業の手を止め、隣を振り返った。
じっとこちらを見つめていた千草と、目が合う。
「……うん。大丈夫だよ」
静かに、一言だけ。
そっと視線を落とし、自らの手を見つめた。
震えは、起こらない。
「……そうですか。よかったです」
環の答えに、一方の千草も、そう一言だけ告げた。
そして、すぐにモニターに視線を戻すと、同じように仕事の準備を始めた。
◇◇◇
その日の業務は、実に平穏に、滞りなく進んだ。
環が、休日気分の状態から徐々に調子を取り戻し、ようやく仕事に没頭し始めていた頃だった。
突然、デスクの隅に、ことりという控えめな音を立てて、何かが置かれた。
「不要ですか」
同時に頭上から降って来た声に、環は驚いて目を見開く。
顔を上げると、デスクに置かれたもの――コーヒーの入ったマグカップの取っ手を握ったまま、千草が、再びこちらをじっと見つめていた。
その肩越しに見えるオフィスの壁時計の針は、ちょうど、10時を指している。
千草と目を合わせて、そのまま数秒。
しかしやがて、視線を落とし、無言でゆっくりと首を横に振る。
それを確認した千草は、何も言わずにマグカップの取っ手から手を離すと、自席に戻った。
環は、そっとマグカップに手を伸ばし、口をつけた。
ここのところ自分で淹れていたコーヒーも、同じ作り方で、同じ量の砂糖を入れていたはずだ。
しかし、今日のコーヒーの方が、何故だか少し、甘いように感じた。
◇◇◇
午前の業務が終わり、昼休みを過ぎ、あっという間に午後になる。
時が進むごとに、環の身体はそわそわと揺れ、意味もなくペンを鳴らす回数が増える。
無意識に、時計を見る頻度が増える。15時は、刻々と近づいていく。
――今日は、行こう。
14時半を過ぎた頃、環は密かにそう心に決めて、独り、目を伏せた。
しかしその直後、ちょうど一本の長い電話対応を終えた千草が、環を振り返り、口を開いた。
「すみません。急遽、オンライン会議の予定が入りました」
廊下の突き当たり、窓の方角に視線を向けて、続ける。
「本日は行けません」
環は、一瞬言葉に詰まった。
だが、すぐに「……分かった」とくぐもった声で答えると、静かに頷きを返した。
千草は、報告を終えるなり、会議の準備のため、すぐに別室へ移動していった。
千草を見送った環は、たまたま15時に所用で外に出る際、廊下の突き当たりの窓に、ふと視線を向けた。
遠目に、白い影が見える。
窓の外、すぐ手前まで、近づいている。
――しかし、立ち止まらない。
白猫は、ほんの一瞬、窓の方に視線を向けたかと思うと、そのまま素通りし、来た道を引き返した。
「月村さん、どうしたの?もう行くよ?」
廊下の途中で突然立ち止まった環に、同行していた社員が、少し先を行ったところで不審そうに声をかけた。
環ははっとして、「すみません」と慌てて謝罪しながら、すぐにその社員の後に続いて歩き出した。
席に戻った後、仕事を再開したものの、終業時間はすぐにやって来た。
周囲は一斉に帰宅ムードになる。そんな中、未だ空のままの隣席を、ちらりと見る。
千草は、まだ帰って来ない。
(……会議、長いな)
もしかして、何かトラブルでもあったのだろうか。
不意に嫌な予感が湧き上がり、胸がざわつく。
その瞬間、背後から、オフィスの扉ががちゃりと開かれる音が響く。
環は、反射的に後ろを振り返った。
「はー、やっと戻ってこれたよ…」
「お疲れ。会議、長かったなあ」
「ああ、営業部の説明が全然終わらなくてさぁ…」
しかし、入って来たのは、社内会議で長らく席を外していた、別の同僚男性だった。
環は、誰にも気づかれないほどの、小さな溜息を吐いた。
すっかり仕事を続ける気力を失い、上手く力の入らない腕で、のろのろと帰り支度を始める。
結局その日は、環が会社を去るまで、千草が席に戻って来ることはなかった。
次回更新は6/27(土) 20時の予定です。




