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隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第2編 断裂
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22/22

第12章 コンテキストスイッチ / 02

ひたすら猫の後について、環は、歩き続ける。

しかし、道を進むにつれ、その脳裏にある疑念が浮かび始めていた。


(……この道って……)


周りの光景が、明らかに、どんどんと見慣れたものになっていく。

もし予想が正しいのなら、このまま進むのは、休みを取っている今日の自分にとって、少々都合が悪い。

だが、猫の歩みは意外にも速く、ゆっくりと立ち止まって考える暇もない。


そうこうしている内に、案の定、自分の勤務先である会社のビルに着いてしまった。


猫は、ビルの脇にある小道に入ると、会社の裏手へ進んでいく。

環は躊躇い、一瞬立ち止まったが、結局は猫を追って小道に入り込んだ。


その先に広がる、少しばかり開けた、僅かに雑草が生い茂る空間。

猫は、既に定位置の草むらでごろごろと寝転がり、お腹を見せている。


それは、15時の窓の内側からいつも見ていたものと、寸分も違わない光景だった。


猫は、後から追いかけてきた環に気付くと、その足元にすり寄って来た。

顔を擦りつけ、甘えたような鳴き声を出す。

環は、ゆっくりとしゃがみ込んで、猫の背を撫でた。

何度となく眺めていた毛並みだったが、実際に触れるのは初めてだった。

想像通りのふわふわの触り心地に、思わず笑みがこぼれる。


その時だった。

頭上から、カチ、という何かが外れるような小さな音が聞こえる。

音に反応した環が顔を上げたのと、その視線の先――会社の窓が開かれたのは、ほぼ同時だった。


「月村さん」


開かれた窓から、顔を出したのは、千草だった。

午前の陽に照らされ、白く輝いたその瞳と、視線が合う。


「おはようございます。今日は休みではありませんでしたか」


千草は、全く動じる様子もなく、いつもの調子で言う。

窓枠に手をかけて、視線を環の足元に落とすと、「猫、来ていますね」と呟いた。


「元々、近くの公園にいる子みたい…。追いかけてきたら、ここに着いちゃった」


千草の言葉に、環は再び猫に視線を落とし、その顎を撫でた。

猫は、ぐるぐると喉を鳴らし、気持ちよさそうに目を細めた。


「千草くん、15時以外でもここに来るんだね」

「ええ、毎日ではありませんが。最近は、午前10時にも休憩に来ています。その時も、その白いのは来ます」


千草は、環の手に撫でられている猫の様子をじっと観察しながら、そう答えた。

そしてふと、窓枠に肘をかけ、静かに目を伏せる。


「月村さん。今日は、休みましたね。ですが、ここへ来た」


当たり前のことを、やけに含みを持たせて言う。

千草の発言の意図が分からず、首を傾げつつも、環は言葉を返した。


「うん、まあ…。成り行きみたいな感じだけど…」

「分かります」


千草は、はっきりと頷いた。


「来る理由が明確でなくても、来る日はあります。休む時も同じです。必要だからではなく、来ない方が良い日もある」


流れるような落ち着いた声に、草の擦れる音が混じる。


「今日は、そういう日でしたか」


環の目をまっすぐに見据え、千草は静かに問いかけた。

環は、猫を撫でる手を止めて、暫し考え込んだ。


「……そうかも、ね。初めてだし、よく分からないけど」

「はい。初めてですね」


その言葉を、なぞるように、繰り返す。


「……そろそろ、戻ります。月村さんは、ゆっくり休んでください」


しかし唐突に、あっさりとそう告げた。窓枠に乗せていた肘を上げ、框に手をかける。

環は「うん。千草くんも、お疲れさま」と言って、窓から身を引こうとする千草に、軽く手を振った。


窓とブラインドが閉められ、完全に千草がビル内に引っ込んだところで、猫はすっと環の足元から離れた。

そして、元来た道を引き返していく。

その後ろ姿を再び追いかけようと足を踏み出して、一瞬、環は窓の方を振り返った。


―――さっきまで、いたのになあ。


少しだけ、胸の中が静かになった。



◇◇◇



公園に戻ると、猫はすぐに木陰に戻っていき、姿が見えなくなった。

ベンチには、まだあの男性が残っている。

環は、猫を見送ると、先ほどと同じ、男性の横のベンチに座った。


「おかえり。待ち人には会えたかな」

「ええ。どうも、うちの会社の、ある社員に会いに行っていたみたいで」


ほとんど面白半分で聞いていたのだろう。

あっさりと返された環のその答えに、男性は、心底驚いたように目を見開いた。


「へえ、本当に待ち人が居たんだね」


そう言いながら、指を口元に当て、急に物思いに耽るような顔になる。


「なんでだろう。行く場所を決めておくと、迷わないからかな?」

「……どうなんでしょう。猫の気持ちは、分かりませんね」


環はくすりと笑いを零しながら、男性を振り返り、そう返した。


「そうだね。理由なんて、人が後からつけるものだからね」


そんな環に対して、男性も、真剣だった表情をふっと綻ばせ、そう呟いた。

そして、「さて」と呟くと、おもむろにベンチから立ち上がり、公園の出口へと向かう。


「じゃあ、僕はこの辺で。……いい一日を」


去り際、一度だけ環を振り返る。

別れの挨拶をしながら手を振って、男性はその場を立ち去った。


猫に続いて、男性を見送り、公園には環一人だけになった。

そこでようやく、環は、全身にずっしりとした倦怠感を抱えていることを自覚した。知らぬ間に、疲労がひどく溜まっていたようだ。

普段しないことを、今日になって突然、山のようにしたからだろう。

まだ昼前だったが、その日はもう、大人しく家に帰って休むことにした。



◇◇◇



家に帰ってから、環は、ほとんど何をするわけでもなく、ただぼんやりと一日を過ごした。

コーヒーを飲みながら、本を読む。

自宅の窓から覗く青空の、雲の行き先を、ただ眺める。

習慣から、何度も時計を確認した。しかし気にする必要がないと、その度に思い直し、視線を逸らした。


そんなことをしている内、あっという間に日は沈んだ。


会社の定時にあたる時間を少し過ぎた頃、環は千草宛てにチャットを送った。

『お疲れさまです。今日はありがとうございました。明日は出勤します』

送信して、すぐに既読が付き、『お疲れさまです。承知しました』という、朝同様に簡潔なメッセージが返って来る。


――特別なことはしていない。だが、妙に長い一日だった。


ベッドに入る直前、環は自らの胸に手を当て、目を閉じた。

呼吸が、随分と落ち着いているように感じる。

正直なところ、身体にはまだわずか、疲労が残っている。だがそれは、どこか心地よい気怠さでもあった。


布団に潜り込む。

昨日とは異なり、睡魔はすぐに襲ってきて、環は深い眠りに落ちた。

身体中の、複雑に絡んだ回路が解けて、ようやく澱んでいたものが流れ出す――そんな気分、だった。

次回更新は6/26(金) 20時の予定です。

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