第7章 プロパティ / 01
「…………村さん。月村さん、聞こえていますか」
何度目か分からない誰かの呼び声が、脳内で音声として認識される。
その瞬間、ようやく環の意識は浮上した。
はっと顔を上げる。慌てて呼び声の主を探し、きょろきょろと周囲を見渡すと、隣の席でじっとこちらの様子を伺っている千草と目が合った。
「あっ…ご、ごめん。千草くん、何か用?」
環は、まだはっきりしない意識のまま、言葉だけそう返した。
「特に用件はありません。しかし、月村さんが動きを停止してから、5分以上は経過しましたので」
環は、作業中だった画面にふと視線を移した。
既にバックライトが自動消灯した暗い画面には、打ちかけの文章の隣で、止まったままのカーソルが点滅し続けている。
まるで白昼夢でも見ていたように、時間間隔が失われていた。
「…集中できていないようですね」
責めている口調ではない。ただ、事実を告げていた。
小池が去ってから既に数時間は経っている。
しかし、環の心はぽっかり空洞が開けられた状態のまま、一向に塞がる気配がなかった。
「……うん。ちょっと混乱してるみたい」
素直に認めた環は、千草から視線を逸らして、自嘲気味に笑った。
マウスを握る手から、諦めたように力が抜けていく。
「ごめん。少し外の空気吸ってくるね」
そう言って、珍しく自ら席を立った。
閑散とした廊下を進みながら、ビル内のあらゆる空間を次々に思い浮かべる。
環はしばらくの間、社内を彷徨った。
人のいない、落ち着ける場所。
そこでしばらく一人で頭を冷やせば、きっと多少は気分が晴れる――
――はずだった。
「………………」
「お疲れさまです」
環は、唖然とした。
ようやく見つけた目的地である、会社裏の非常口。
その前で、ほんのついさっき断りを入れて別れたはずの千草が、扉に寄りかかって立っていた。
腕組みをして扉の小窓から外を眺めていたようだが、環が到着するなり振り向いて、当たり前のようにしれっと挨拶をしてくる。
「偶然ではありません」
まだ何も聞いていない。
言葉を失い立ち尽くしていた環に、その困惑を悟ったらしい千草が機械的に状況説明を続ける。
「月村さんがここに来ると予測しました。しかし、一人になりたいなら戻ります。どうしますか」
そして、いつものように、決定権だけは放棄する。
「…いいよ、居ても」
最近の千草の神出鬼没ぶりにいい加減慣れつつあった環は、驚きも怒りもなく、ただ呆れてそう呟いた。
◇◇◇
非常口の扉を開けると、想像以上に冷たい風がひゅうと飛び込んでくる。
環は、杖を慎重につきながら、非常階段を上り、踊り場の手すりに寄りかかった。
荒々しく靡く髪を押さえていると、後に続いた千草が、同じように斜め前の手すりに寄りかかる。
外気は環の体温を急激に奪ったが、一方で、熱暴走気味だった頭も冷やされ、かえって心地いい位だった。
「あの話、無理に受ける必要はありません。断っても、月村さんの価値は変わりません」
特に事前の雑談などもなく、いきなり千草はそう切り出す。
風を受けて荒れる髪で、顔が半分隠れて見えないが、その声は落ち着いていた。
「……私の価値って、なに?」
風の勢いに刺激され、環の意識はオフィスにいた時よりずっとはっきりしていた。
千草の言葉を落ち着いて受け止めて、静かにそう返す。
「再現性です。あなたは一度整理したものを崩さない。状況が変わっても、判断の軸が同じです」
その答えに、環は、微かにふっと鼻で笑った。
「……それは、皮肉を言ってるわけじゃないよね」
デスクの奥深くにしまい込み、存在を封じた本――その記憶を揺さぶられ、つい非難めいた口調になる。
しかし千草は動じることなく、すぐに「いいえ」と否定した。
「私の言うそれは、技術ではありません。性質です。代替が効きません。それが価値です」
それは、雲を掴むような、解釈しがたい答えだった。
環は、更に問いかけた。
「千草くんは、自分の価値ってなんだと思う?」
一瞬、沈黙が落ちる。
「機能です。不足を埋めること。穴があれば塞ぐ。破綻しそうなら支える」
しかしすぐに、迷い無く、淀みない口調で千草は答えた。
自らの手のひらを目の前にかざし、じっと見つめている。
「…それ以上はありません。私自身の価値は、その程度です」
千草は目を伏せると、かざしていた手をそっと握りしめた。
「…まるで自分が、機械か物みたいな言い方をするね」
そう感想を漏らした環の瞳は、どこか愁いを帯びたような色をしていた。
「ええ。ですが、その方が安定します。主観を入れると判断が遅れる、月村さんのように。価値を疑う必要がなくなるなら、私はそれで構いません」
まるで躊躇なく、平然と言い切るその様は、静かな水のように、揺らぐ気配一つ無かった。
「…………変」
環は、思い切り眉根を寄せて、不可解なものを見るような顔で千草を見つめ、ぽつりと一言呟いた。
千草は、吹き付ける風に逆らって、環に顔を向けた。
「よく言われます。ですが、変でも機能しますので、問題ありません」
言葉のとおり、機械のように、淡々と言う。
「月村さんも同じです。理解できなくても、成立しています」
「私も……?」
「はい。それで十分です」
尚も怪訝な顔をしながら聞き返す環に、千草は、確信を込めた口調でそう返す。
「成立しているものに、理由は要りません。壊れていないなら、支障はありません。私はそう判断します」
環は、「ふーん……」と納得とも感心ともつかない言葉を漏らすと、それっきり黙り込んだ。
くるりと身体ごと振り向き、手すりを掴み直すと、青空に向かって暫しぼんやりと視線を投げる。
「…そろそろ冷えます。戻りましょう」
その言葉に、環は反射的に手すりにかけていた指先を擦り合わせた。
指先だけでなく、手首まで体温が消えかけていることを、ようやく自覚する。
環と千草は、非常階段を下り、ビル内へと引き返した。
オフィスへ戻る道の途中、気づけば、環の頭に立ち込めていた靄は、ほとんど取り払われていた。
次回更新は5/2(土) 20時の予定です。




