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第6章 外部入力 / 02

「失礼します」


環は、緊張を解くための深呼吸を1つした後、そう言って会議室の扉を開けた。

恐る恐る中の様子を確認すると、来訪者と思われる人物は、総務部からの案内を受け、既に会議室の椅子に腰かけていた。


それは、四、五十代くらいと思われる、白髪交じりの、穏やかそうな男性だった。

部屋に入ってきた環と千草に気づくと、優しげに目を細め、緩慢な動作で頭を軽く下げる。


「お待たせして申し訳ありません。私が月村環です。本日はどういったご用件でしょうか」


環は、男性と机を挟んで向かい合う形で座り、まずは丁寧に初対面の挨拶をした。

千草は環の隣に座り、黙ってその様子を見守っている。


「初めまして。急な訪問にもかかわらずご対応いただき、感謝いたします。…私は、こういう者です」


男性は、電話と変わらず礼儀正しい態度で挨拶を返した。

そしておもむろに懐から名刺を取り出すと、環と千草にそれぞれ1枚、丁重に手渡す。


環は、すぐさま受け取った名刺を確認した。

名刺には、何の飾り気もないシンプルな字体で、『東都美術出版 芸術文化編集部 企画編集責任者 小池』とだけ記載がされていた。


「出版社…?」

「はい」


予想外の肩書きに、環は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、そう呟いた。

出版社と関わる可能性など、少なくとも仕事上では考えられない。

――一体、なぜ。


「月村さん、こちらを覚えていらっしゃいますか」


小池は、名刺に続いて、小脇に抱えていた鞄から1冊の本を取り出した。

その本は、あちこちが擦り切れ、変色しており、相当な年季が入っているようだった。

小池に差し出され、環は不可解な面持ちで本を受け取る――しかし、やがてそれが何であるか理解した瞬間、驚きのあまり呼吸が止まりそうになった。


「これ…まさか、私が大学時代に書いてた…」

「そうです」


環は、震える手で口を覆いながら、本の表紙を眺めた。

タイトル――『美の再現性』。

環が、大学時代に専攻していた情報工学の観点から美術作品を分析した、個人製作の美術評論誌だった。


環のその激しい動揺を見て、小池に対する千草の視線が僅かに鋭くなる。


「月村さん。私は当時、あなたの作品のファンだったんですよ」


小池の声に、再び興奮の色が宿る。


「あなたの着眼点は素晴らしい。美のパターン化、情報としての分析…美術だけを生業にしている人間では、こういう発想は出てこない」


「美しさを感じるものではなく、“再現可能”なものとして扱っている。そこが決定的に違う。これは美の設計図に近い」


先ほどまでのゆったりとした口調と打って変わって、早口に、抑揚をつけて語り出す。

その目はぎらぎらと、まるで宝石を見つめるかのように、環の書いた本に視線を投げかけている。


その様子に環が圧倒されていると、小池は、咳払いを1つして、話を仕切り直した。


「…さて、ここからが本題です。月村環さん。あなたには、我が社で取り扱っている美術評論誌への、記事寄稿をお願いしたい」


既に情報量が限界に近かった環は、ここで完全に思考が停止した。


「え……?」

「次に企画している特集テーマは『AIと美術』。あなた以上の適任はいないと考えています」


小池は、環の狼狽に気づくことなく、更に鞄から別の書類を引き出し、環に手渡す。

今度は、真新しいコピー紙が数枚。雑誌の特集概要と、会社の連絡先などが書かれた案内文だった。


「いや…でも、あんなものは、本当に自己満足の趣味でしかなくて。当時だって、全然読む人なんていなくて…」


環は、小池に渡された紙を握りしめながら、まるで独り言を呟くように言う。

しかし、その環の言葉に対し、小池は信じられないといった顔をして、大げさに反論した。


「とんでもない。あなたの作品には、唯一無二の『価値』がある」


――――『価値』


その言葉が、環の胸に、溶けた鉛が流し込まれるように、重く沈んでいく。


「どうでしょう。まずは、一度だけでも」


小池は、机に肘をついて手を組み、射貫くような視線を環に送る。

俯いたまま何も答えない環に、小池は抑えきれない様子で、更に口を開いた。


「…この特集は、連載化も検討しています。いずれうちの会社に籍を置き、専属で書いていただいても――」




「―――確認ですが」


突然の声に、話が遮られる。

一瞬、混乱したような顔になり、黙り込む小池。

ここまでただ様子を見るだけだった千草が、ついに口火を切って意見を述べ始めた。


「本件は当社への業務依頼ではなく、月村個人への打診という理解でよろしいですか」

「……そうです。正式契約の前段階です」


再び穏やかな口調に戻った小池が、ここで初めて千草の顔を直視して、そう返す。


「…承知しました。では、本日は回答できません」


千草は、視線を移す。小池から環に。そして、環の手元へ。

環は放心状態のまま俯いて、小池の視界に入らない机の下で、書類をぐしゃりと握り潰していた。


「本人の準備が整っておりません。後日、改めて連絡をとります」



◇◇◇



「個人制作の美術評論誌……ですか」


小池が去った後の会議室で、千草は、大学時代の環の著作本を手に取った。

手指が頻繁に当たるであろう本の縁は、特にボロボロに崩れ去っており、触れると粉が舞った。

変色も酷い。おそらく、手垢が原因だろう。


「経年劣化だけが原因とは考えられない傷み方をしています。長年の間、何度も読み返しのでしょう」


パラパラと軽くページを捲る。

背表紙の糊が取れた部分が、外れないようにテープで補強がなされているページを見つける。

書き込みの類は見当たらない。それだけ、大事に扱っていたということだろう。


「本人からの証言も無く、確証もありませんが。月村さんの活動の僅かな痕跡を頼りに、今回ようやく居場所を突き止めたものと推測します」


雑誌への記事寄稿の件は、回答保留となった。

玄関ロビーでの見送りの際、小池は「お返事は特に急ぎません。今回、ようやくお会いできただけでも幸運だったと思っています。ゆっくりと考えてください」と言って、にこやかに帰っていった。


「容易なことではありません。相当の執念があって、成し遂げられたことです」


本を閉じ、環の目の前に置く。

千草は、小池から渡された書類を手に、未だどこかぼんやりとしている環を見て、静かに告げた。


「…今回の件は、月村さん一人だけで対応しない方が賢明です。次回も同席します」


環は、ようやく千草をゆっくりと見上げると、「うん…」とだけ返事を返す。



その後、環と千草は会議室を出て、仕事に戻った。

課長への事後報告の中で、小池の引き抜き紛いの発言については、二人は自然と口を噤んだ。

環は、仕事を再開する手前、小池から渡された書類と自身の本を、デスクの引き出しの奥深くへとしまい込んだ。

次回更新は5/1(金) 20時の予定です。

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