第7章 プロパティ / 02
――15時。
その日の休憩は2回目であったが、環と千草は特に何も言及することなく、自然と窓際に並んで外を眺めていた。
環はいつものように、遠くのビルの角を見つめて、ぼんやりと猫を待つ。
今日は、特別気温が低いようだった。寄りかかる窓枠の金属は外気にあてられてひどく冷たく、触れた環の指はかじかんで赤くなっていた。
「使いますか」
千草が環の手元にハンカチを差し出す。環は「ありがとう」と礼を言い、それを受け取った。
ハンカチ越しに手をつき直すと、冷えは幾分か解消される。
しばらく黙って窓を眺めていると、見慣れた白い影がビルの陰から姿を現した。
猫は、いつもの道を通り、窓の下までやってきて、千草と環を見つめて一度ピタリと動きを止める。
その真ん丸な瞳と視線が合った瞬間、環は午前中の混乱と不安が嘘のように、ふわりと目を細めて微笑んだ。
「やはり、表情が違います」
相変わらず、環の横顔を、隣でじっと眺めていた千草が言う。
「今の方が分かりやすいです。無理をしていません」
その言葉に、環は、微笑みをふっと苦笑いに変えた。
「…いつも無理をしているみたいな口ぶりだね」
「しています。普段は、崩れないように整えています。今は…楽そうです」
そう言いながら千草は、わずかに首を傾け、より注意深く環の顔を覗き込んだ。
猫は、定位置の草むらの上で寝転がり、しばらく伸び伸びとくつろいでいた。
しかし、毎日の決まった仕草を一通りし終わると、満足したのかすぐに立ち去ってしまう。
「またね……」
遠く離れていく猫の後ろ姿を眺めながら、環は、窓の向こうへ小さく手を振った。
「明日もまた来ます」
「…うーん。そう毎日来るかなぁ…」
断言する千草に、環は苦笑しながらやんわりと疑問を投げかけた。
「確かに、来ない日もあるでしょう。それでもかまいません。来た日に見ます」
そう言って、猫が去った先を眩しそうに見つめる千草の顔が、窓ガラスに映っていた。
◇◇◇
定時を過ぎ、環が退勤の準備を始めた頃、隣の千草がふいに声をかけてきた。
「今日の件、事前に情報を整理し、必要であれば想定問答を作ります。月村さんは目を通すだけでかまいません」
千草のその申し出に、環は、驚きとともに、言い知れぬ違和感を覚えた。
確かに職場で起こったことだが、この件は本来、業務とは関係がない。個人的な問題だ。
――それなのに。
(なんで、こんなに自然に受け入れてるんだろう)
環は、掴んでいた鞄の持ち手を、更に力強く握りしめた。
「でも…そこまでしてもらうのは、さすがに悪いよ」
「しかし、次回も同席する以上、把握は必要です」
――論理の刃が、向けられる。
「いや、いい。せっかくだけど、気持ちだけ受け取っておくね。これは私個人の問題だから」
しかし今回は、はっきりと、線を引いた。
首を横に振り、静かに、だが確実にこれ以上の立ち入りを拒む。
「………そうですか。分かりました」
ほんの微かに間を空けて、千草が了承を示す。
その表情は、少しも変わらない。
「では、必要になれば言ってください。一人で考えなくていいです」
そう言って早々に席を立ち、「先に失礼します」と言って千草はオフィスを後にした。
残された環は、深くゆっくりと、息を吐き出した。
首元に当てられた刃を、間一髪で逃れたような安堵感。
しかし同時に、その胸には、隙間風が吹いている気がした。
次回更新は5/8(金) 20時の予定です。




