60 死闘。~菊花賞・前編~
前回のあらすじ
天皇賞秋。快調に飛ばすサイレンススズランに悲劇が起こる。
60
火曜日。
天皇賞・秋から二日が過ぎても、競馬界は立ち止まってはくれなかった。
美浦、栗東の両トレーニングセンターでは、夜明け前から多くの馬が調教コースに向かっていた。
蹄鉄がアスファルトを叩く音。馬の鼻息。厩舎スタッフたちの掛け声。
いつもと変わらぬ朝だった。だが、その空気だけは違っていた。
"沈黙の日曜日"
レース翌日にはセンセーショナルな見出しが競馬紙面を飾った。
三コーナーで起きた悲劇。
府中を埋め尽くした十三万人を沈黙させた、あの出来事。
誰もが口にはしない。だが、誰もが胸の奥で引きずっていた。
それでも週末には、三歳クラシック最後の一冠──菊花賞が待っている。
競馬は止まらない。
各陣営はそれぞれの決戦へ向け、最後の追い切りを消化していた。
◇
美穂トレーニングセンター。
朝霧の残る坂路で、一頭の芦毛が力強く駆け上がる。
白みがかった息を吐きながら、カイウンスカイの馬体が躍動する。最後までその脚色は鈍らない。
併せ馬を半馬身ほど突き放したところで、騎乗していた立仲がゆっくりと手綱を緩めた。
ゴール板を過ぎる。荒い息を吐きながら歩かせると、待っていた堀田調教師が静かに頷いた。
「いい動きだった」
帽子を深く被ったまま、短くそう言う。立仲も何度か頷き返した。
「これなら問題ありません。万全ですね」
「ああ」
二、三言だけ言葉を交わす。それだけで十分だった。
前走の京都大賞典は古馬との初対戦だった。年上のGⅠ馬二頭に詰め寄られるも、クビ差で逃げ切った。
初の関西圏への輸送。こう見えて神経質な面があるカイウンスカイには不安材料だった。
夏負けの影響で予定が狂ったが、どうにか京都競馬場も走らせることができた。
『さすが、皐月賞馬だ!』
そんな称賛の声の傍ら、堀田は勝利よりもレース後の疲労が心配だった。
(杞憂に終わって良かった)
心の中でそっと安堵し、仕上がりへの手応えを感じた堀田だった。
厩舎に戻ろうとした時だった。
「堀田調教師。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
振り返ると、スポーツ新聞の記者・尾田和哉が手帳を片手に立っていた。
「ああ、尾田さんか」
「お忙しいところすみません」
人当たりのいい笑み。堀田は尾田の顔を見て、小さくため息をついた。
「……一つだけや」
「ありがとうございます」
尾田はすぐに本題へ入る。
「京都大賞典の反動はありませんか?」
単刀直入だった。堀田は少しだけ帽子のつばを上げる。
「問題ない」
短い一言。だが力強い言葉が続いた。
「今日の追い切りも予定通り。満足のいく走りでした」
それだけ言うと、再び帽子を深く被り直す。これ以上は話さない。
そういう意思表示だった。
「ありがとうございました」
尾田は深々と頭を下げる。堀田の背中が遠ざかるのを見送りながら、小さく手帳を開いた。
そこへ短く書き込む。
──カイウンスカイ、万全。
インクが乾くのを待たず、尾田は次の取材先へと足を向けていた。
◇
栗東トレーニングセンター。
スペシャルデイズの追い切りを前に、蒼井は腕を組んで立っていた。
目の前では、椿が鞍へ跨る。馬具の金具が触れ合う音だけが、妙に大きく響いていた。
蒼井は咳払いを一つする。
「椿」
「はい」
「……プロ相手に言うことやないんやけど」
少しだけ間を置く。
「気持ちの整理は、大丈夫なんか」
椿は一瞬だけ目を伏せた。
何を聞かれているのか、分かっている。
「大丈夫です」
即答だった。
「競馬に落馬や故障は付き物ですから」
いつものように椿は笑う。だが、その笑みはどこか違って見えた。
「さすがに動揺はしました。でも、もう切り替えました」
「そうか」
蒼井はそれ以上聞かなかった。
(……好事魔多し、か)
心の中だけで呟く。
名馬もいた。無名の馬もいた。
これまで故障で夢を絶たれた馬を、何頭、見送ってきただろうか。
──競馬に故障は付き物だ。仕方ないことだと、分かっている。
それでも、慣れることなどできない。
だが──。競馬は待ってくれない。
蒼井は静かに頷いた。
「行こうか」
「はい」
椿はスペシャルデイズの首筋を軽く叩く。黒鹿毛の馬は、それに応えるように、小さく鼻を鳴らした。
◇
土曜日。京都競馬場。
調整ルームは普段と変わらぬ一日を迎えていた。
騎手たちは黙々と準備を進める。椿も、その一人だった。
依頼を受けたレースへ騎乗する。
本馬場へ向かい、ゲートへ入り、スタートを切る。
勝負所を見極め、進路を探し、追い出す。
そして、ゴール板を駆け抜ける。
(変わらない)
椿は心の中で呟いた。
検量に向かう。
(これまで通りや)
何も変わらない。常にベストを尽くすだけだ。
そう自分へ言い聞かせるように、何度も何度も繰り返した。
タオルで汗を拭う。冷たい水で口を潤す。そして、大きく深呼吸を一つ。
椿は、次のレースへと向かって行った。
◇
翌日。京都競馬場。秋空の下、競馬場は朝から熱気に包まれていた。
先週の府中に負けないほどの人波。パドックには何重もの人の波ができていた。
掲げられた横断幕は、春の三強を中心に揺れていた。
【翔べ、クラウンヘイロー!!】
クラウンヘイローが自信の横断幕の前をゆっくりと通過する。
京都新聞杯では僅差の二着に敗れるも、力は見せた。
気合い十分。
ダービー敗戦の雪辱を果たすべく、ファンの声援を背に受けて、最後の一冠へ挑む。
【芦毛の逃亡者☆カイウンスカイ】
皐月賞馬、カイウンスカイ。古馬を破った勢いそのままに、二冠奪取を狙う。
落ち着いた様子で周回を続ける筋肉隆々の馬体は、好調を表していた。
打倒スペシャルデイズの一番手として、ファンは夢を見る。
【世界への序章・スペシャルデイズ☆】
スペシャルデイズはリズム良く頭を上げ下げしながら、力強い歩様を晒していた。
ダービーで見せた豪脚は、多くの競馬ファンや関係者に、世界への夢を抱かせるものだった。
ここも勝つ。そしてジャパンカップへ。
ファンはそんな期待を、数字で示していた。
◇
単勝一・五倍。
先週と同じく、断然の一番人気。そして、その鞍上には椿航。
その重圧は誰の目にも明らかだった。
『今週は頼んだぞ!!』
『勝てよー!!』
パドックの観客から、小さな檄が飛ぶ。
「止まーれー!!」
その中で係員の合図がパドックに響いた。騎手たちが、それぞれの相棒のもとへ歩き出す。
椿は歩幅を狭めながら相棒に近づくと、ゆっくりとスペシャルデイズの顔を見る。
その視線に気づいたスペシャルデイズは、嬉しそうに首を上下させる。
「椿、今日も勝つよ!」
椿は思わず笑った。
「今から気張りすぎると、三千メートル持たへんで」
「分かってるよ!折・り・合・い、大事!」
でしょ? っと、首をかしげるような仕草をする。
「言われたことは、ちゃんと覚えてるからね!」
元気いっぱいの返事。その声に、ようやく椿の頬も少しだけ緩む。
三千メートル。どの馬にとっても未知の距離。
折り合って、我慢して、最後の直線へ。
長い距離を走りきるための持久力と底力が求められる舞台。
十七頭すべてが、まだ見ぬ距離に挑もうとしていた。
椿は、静かに手綱を握り直した。
「行こうか」
スペシャルデイズは力強く鼻を鳴らす。心地よい秋の陽光が傾き始め、足下から続く影が少し長くなる。
クラシック三冠、最終戦。
悲願か。
二冠か。
秋の淀で最後の決戦が迫っていた。
お読みいただきありがとうございました!
天皇賞の暗い雰囲気が残るトレセンのお話からでした。
次回は菊花賞の中編です。
更新の目標は8月末です。暑いですが皆さん気をつけてお過ごしください!
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