59 異次元の逃亡者
更新しました。
こちらでは一足早く、秋競馬が始まりました。
59
東京競馬場 天皇賞・秋(芝二千メートル 十二頭立て)
「大野原先生。スズランの千メートル通過タイムは何秒くらいと予想されますか?」
競馬番組の中で司会者が競馬評論家の大野原に質問を投げかけた。
「そうですねえ。……五十八秒台前半とみます」
オォっという反応がスタジオから巻き起こった。
「かなり早いペースですね」
「さすがのサイレンススズランでも、それ以上はオーバーペースでしょう」
「ですが、早いペースでの逃げが一番力を発揮できると思います」
大野原は迷いなく言い切った。
スタジオ内には納得の雰囲気が漂う。
サイレンススズランが逃げることは、誰も疑わない。誰もがそう思っていた。
スズランが逃げる。そして、そのまま逃げ切る。誰もがそう信じていた。
◇
「つづいては、井澤先生と潮田さんの予想コーナーです!」
同時に軽妙な音楽が流れ、カメラが一斉に井澤と潮田に向けられる。
「先生ぇ~。今日の天皇賞は秘策があるんですよねぇ?」
潮田が垂れかかりながら、甘えた声を出す。
「たはぁー。真央ちゃん、期待しちゃう?」
井澤はデレデレの顔をしたまま、フリップを取り出した。
「本命は、サイレンススズランです!」
ズバリと言い切る。
「その年の宝塚記念の勝ち馬で、前哨戦を一番人気で買った馬は、天皇賞でも95%が二着以内に入っています」
井澤は、どや顔とともに、黒淵の眼鏡をくいっと上げる。
「先生ぇ、逃げ馬にサイレントバンカーがいますが、大丈夫ですかぁ?」
「問題ないでしょう!」
「スズランはゲートを出てからが早い。頑張ってついて行けば、先に潰れる可能性が高いです」
再び井澤はメガネをくいっと押し上げた。
「なるほどぉ」
潮田がニコニコ顔で大きくうなづく。
「サイレンススズランは金色でカッコいいから真央、楽しみですぅ!」
ニコニコの井澤は、新しいフリップを取り出した。
◎ 一番サイレンススズラン
◯ 九番シロクジジャスティス
▲ 十番スティルゴールド
「これで馬券もバッチリですね。井澤先生、天皇賞は先生に──」
「乗っちマオぉ~☆」
名物コーナーが終わり、カメラが番組の進行を務めるアナウンサーへと向かう。
「さぁ、天皇賞のパドックの時間となりました。それでは大注目のサイレンススズラン号をご覧ください」
◇
パドックは満員だった。いや、正確には東京競馬場そのものが満員だった。
十三万人の観客が府中にやってきていた。
どこに行こうにも人の海を掻き分けなければ進めない。
飲食店もトイレも長蛇の列。
指定席も立ち見も、人、人、人。
人々の目的は、ただ一頭。サイレンススズランの走りを見ることだった。
全ての視線がサイレンススズランに吸い寄せられていった。
◇
(先輩に誘われて、初めて競馬場にやってきたのはいつだったかなぁ)
そんなことを考えながら、野球帽を被った男は新聞に赤ペンを走らせる。
その隣で友人はスズランのグッズを手に、落ち着かない様子で姿を見せるのを待っていた。
「お、大本命のお出ました!」
帽子の男がパドックに現れたサイレンススズランを見つけると、友人の手が帽子の男の肩をつかむ。
男が友人の顔を見ると、憧れのアイドルに会った少年のような顔をしていた。
(スズランに脳を焼かれたようだ)
さもありなん。と帽子の男は納得するようにうなずいた。
長く競馬を見ていると、心を奪われる一頭に出会う。
その馬が引退するまで、いや引退してからも、その馬の情報がないかつい紙面を探してしまうのだった。
そして、その馬の産駒を見つけては歓喜し、どこか面影を探してしまう。
何世代にも渡って応援するため競馬場に足を運ぶ。
そして、また新しい夢を探す。
競馬とは、そういうものだった。
◇
大観衆の中を歩くことなど人生の中でそうあることではない。
(いや、正確に言えばお客さんが見てるのは、俺じゃないんやけどな)
手綱をしっかりと握り、馬のリズムに合わせて歩く。どこかいつもより背筋が伸びてるように意識して。
ちらりと隣を見れば、ピカピカに輝く栗毛の馬体が静かに周回をしていた。
三歳春の狂気さは薄れ、堂々とした歩様だった。
まさに“王者の風格”だった。
それを表すかのような、圧倒的な人気。
単勝一・二倍は近年のGⅠでは見たこともない。断然の一番人気であった。
係員の号令をうけ、騎手が騎乗馬のもとに集まってくる。
厩務員の男は椿騎手と目が合う。
にこやかな笑みを浮かべ、椿はひらりと鞍へとまたがった。
◇
刻々とレースの時間が近づいてきた。
すでに出走馬たちは地下道へと消えている。観客はまだかまだかとざわめきが止まない。
『出てきたぞ!』
誰かが叫ぶ。
地下道の出口から誘導馬につづいて、大本命馬が姿を表した。
───『春のグランプリホースが秋も主役へ。三歳勢も一蹴した前走はまさに圧巻!七連勝での天皇賞制覇へ一直線! 異次元の逃亡者、サイレンススズラン!!』───
手拍子が洪水のように押し掛ける。
その中を、椿を背にしたスズランは、堂々と本馬場へと足を踏み入れた。
引き綱が外される。サイレンススズランはゆっくりとターフの上を走り出した。
その一挙手一投足が注目される世界的なスターのように、スズランが動くとワッと歓声があがる。
「ずいぶん人気者やないか。緊張してへんか?」
椿が背中から問いかけると、スズランが鼻を鳴らす。
「今回は椿さんが騎乗するから呼吸が合うか心配だなぁ」
「宝塚は先約があったんや。しゃあないやろ」
スズランのからかうような声色から本気でないことを椿は察する。
「調子はどうや?」
「最高!」
即答だった。
「アメリカまで飛んで行けそうだよ」
ゆったりとしたストライドで走るスズラン。
このバネの利いた走りと、クッション性の高さが、一段と良くなった。
四歳の秋を迎えて、本格化したのか調教でまたがった時の反応もよく、まさに超抜のデキだった。
勝って当然。スズランも、椿も、そう思っていた。
それだけの自信が二人を包み込んでいた。
◇
ゲート入りが進む。一枠一番、一番人気のサイレンススズランはすでにゲートに収まった。
三歳のように暴れることはない。じっと落ち着いて、その時を待っていた。
この日、詰めかけたファンは、落ち着いて待つスズランを見て、『今日はどんな勝ち方をみせてくれるのだろうか』と思った。
──枠入りは残り三頭。
ゲートが開いたら、自然と先頭に立つ白い帽子。
そこからぐんぐんと後続を離して栗毛の馬体が快調に飛ばしていくだろう。
そして、そのままちぎってゴール板を通過し、勝ち名乗りを告げる椿の右手が空に掲げられる。
割れんばかりの大歓声。
と、そんな心踊るレースを想像していたのかもしれない。ファンは高揚感とともに期待感に溢れていた。
だが──
『競馬に絶対はない』
古くから競馬界に伝わる格言だ。
誰でも知っているその言葉を、この日、十三万の観客は思い知ることになった。
◇
「今日もマイペースで行こか」
椿の呼び掛けに応じるように、勢いよくゲートを飛び出した。
スタート直後に待ち構える最初のコーナーへ向かう。
体が軽い。スズランは体調の良さを改めて感じた。
(これなら……)
脚を踏み出せば前へと加速する。苦しさはない。もっと早く。もっと前に。
───『サイレンススズラン先頭です!後続とは大きな差が開いている!』───
観客が見たかった絵を写したかのように、快調に飛ばすサイレンススズラン。
その手応えはまだまだ余裕。顔色一つ変えずにハイペースを維持する。
───『千メートル……ご、五十七秒台!』───
ターフビジョンに映った通過時計を見て、スタンドがどよめく。嘆息があちこちからこぼれる。
『このまま持つのか!?』
『さすがに速すぎないか?』
そんな不安の声も交差する。
そんな反応も意に介さず、サイレンススズランのペースは落ちない。
───『早くも先頭は三コーナーにさしかかっ……あぁぁ!!?』───
レースの終盤。三コーナーを回って四コーナーに入るところで、実況の悲鳴が上がった。
十三万人が息を飲む。東京競馬場から音が消えた瞬間だった。
◇
椿は控え室の椅子にドサッと座り込んだ。
鉛を詰められたように体が重い。
時折、椿に声をかける騎手や調教師がいるが、曖昧な返事しかできなかった。
橋田調教師からは『これも競馬だ』と一言だけ声をかけられた。
片付けを終えた椿はタクシーに乗り込む。向かう先は行きつけの店。座席に座り椿は頭を抱える。
彼の世界から色が消えた。
椿は、出された燗のおかわりを注ぎ、ぐいっと酒をあおる。
熱い酒が喉を通っても、胸の奥は少しも温まらない。
三コーナー。
あの光景だけが、何度も何度も脳裏に蘇る。
「……っ」
椿は震える右手を、左手で強く握り締めた。
それでも震えは止められなかった。
お読みいただきありがとうございました!
心痛の極み。何度レース動画を見ても言葉がありません。関係者の方の心中お察しします。
悲しみのなか、次回からは菊花賞を迎えます。
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