57 余韻。
書けたので更新しますね(ФωФ)
今回はダービーのその後の話です。
前回のあらすじ
最後の直線。スペシャルデイズが圧巻の末脚で突き抜けて先頭でゴール板を駆け抜けた!
57
心臓が大きく跳ね続けている。
握り締めていた拳を、蒼井はゆっくりと開いた。手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。
その視線の先。
赤い帽子のスペシャルデイズが、先頭でゴール板を駆け抜けていた。
───『勝ったのはスペシャルデイズ!! 見事、ジャポンダービーを制しましたぁぁぁ!!』───
実況の絶叫。
爆発する歓声。
東京競馬場を揺らすような拍手。
だが、蒼井には、まるで現実感がなかった。夢を見ているかのようだった。
スペシャルデイズが勝った。
ダービーを勝った。
それはつまり──、自分がダービートレーナーになったということだ。
誰もが憧れる称号。競馬に携わる人間なら、一度は夢見る場所。
その頂点へ、自分の管理馬が辿り着いた。
(……勝ったのか)
ようやく、その言葉だけが頭の中に浮かんだ。
レース後の高揚感は当然ある。
GⅠ、しかもダービーを勝ったのに、やけに落ち着いている自分がいる。
遠くから眺めているような感覚だった。本当に夢なのではないか。そんな錯覚すら覚える。
そんな不思議な感覚のまま、蒼井は大きく息を吸い、そしてゆっくりと息を吐いた。
◇
蒼井は、ふと隣を見る。
隣にいた泰平ファーム代表の大野田が、完全に放心していた。
「……」
口を半開きにしたまま、ターフを見つめている。
スペシャルデイズは泰平ファームの生産馬だ。生まれた時から見守ってきた馬が、ダービー馬になった。
その衝撃は、蒼井以上かもしれない。
「……大野田さん」
声をかけても反応がない。
蒼井は苦笑しながら、もう一度呼びかけた。
「大野田さん、気を確かに。早く愛馬を出迎えにいきましょう」
「……あ、そ、そうですね」
大野田は、ハッとしたように肩を震わせる。
だが立ち上がろうとした瞬間、大野田の膝がガクッと崩れた。
「おっと」
慌てて蒼井が支える。大野田は情けなさそうに笑った。
「いやぁ……情けない」
頬を掻きながら息を吐く。
「脚が全然言うことをきかんのですわ」
「気持ちは分かりますよ」
蒼井も苦笑する。本当は自分だって似たようなものだ。
胸の鼓動はいまだに速い。
気を抜けば、その場で叫び出してしまいそうだった。
「しかし、さすが蒼井先生だ」
大野田が感心したように言う。
「ダービートレーナーになったのに、ずいぶん落ち着いておられる。私なんか直線では心臓が止まるかと思いましたよ」
ははは、と乾いた笑い声。蒼井は曖昧に笑った。
「いえ、そんなことないですよ」
もちろん嘘だった。
本当は今すぐ飛び跳ねたい。
叫びたい。
誰かに抱きつきたい。
だが周囲には同業者や関係者が山ほどいる。こんなところで取り乱したら、一生ネタにされるに決まっている。
(落ち着け……)
蒼井は必死に平静を装う。だが、口元だけはどうしても緩んでしまっていた。
◇
ターフでは勝利騎手インタビューの準備が始まっていた。
アナウンサーの声が場内に響く。
───『それでは勝利ジョッキーインタビューです! ダービージョッキーとなりました、椿航騎手です!!』───
『ワァァァァッ!!』
スタンドから大きな拍手が巻き起こる。その中心で、椿は少し照れくさそうにはにかみ、軽く頭を下げる。
そんな椿に向けて、称賛の籠った拍手がさらに大きく響いた。
───『最後の直線は物凄い末脚でした。乗っていて、いかがでしたか?』───
椿は苦笑しながら頭を掻いた。
「僕もびっくりしました」
観客席からドッと笑いが漏れる。
「こんな脚使えたんや、って思いましたね。皐月賞より、だいぶパワーアップしてました」
───『ゴール後には珍しくガッツポーズも飛び出しました!』───
「あれは……嬉しかったですね。初めてのダービー勝利だったんで、興奮が表に出てしまいました」
少し照れながら椿が笑う。
「でも、これで “椿はダービー勝てない” ってジンクスも無くなったので──」
「来年もまた勝てるよう頑張ります」
瞬間、今日一番の笑いが、ドッとスタンドから立ち上がった。
念願のダービーを勝ったばかりなのに、もう連覇を口にする。そんな椿らしい言い回しに、詰めかけたファンからは、笑い声とともに、彼を支持するかのように大きな拍手が送られた。
そのまま拍手は波のように広がって、競馬場を包んでいった。
───『本日はおめでとうございました! 椿航騎手でした!!』───
雷鳴のような拍手。
椿は何度も頭を下げながら、照れくさそうに笑っていた。
◇
その頃。
スペシャルデイズはコース脇をゆっくり歩いていた。
汗は綺麗に拭われ、首には鮮やかな赤いレイが掛けられている。
ふと、そのレイへ目を向けた。
『ジャポンダービー』
金色の刺繍が陽光を受けて輝いている。
「ふふん」
誇らしげに鼻を鳴らした。周囲の人間たちが慌ただしく動いているのが横目に見える。
歓声。
カメラのシャッター音。
晴れやかな表情のスーツ姿の人間たち。
やがてスペシャルデイズを中心に、大きな人だかりができ始めた。
(あぁ、知ってる)
デイズは静かに瞬きをする。
(写真撮影だ)
以前、目にしたことがある。GⅠに勝った後、人間たちは嬉しそうに集まって写真を撮るのだ。
パシャッ。
パシャパシャッ。
無数のシャッター音。
歓声に見守られながら、誰の顔にも笑顔が絶えない。
みんな、嬉しそうだった。
「こっちお願いしますー!」
「椿騎手、もう少し前へ!」
「デイズ、こっち向いてー!」
次々に飛ぶ声。
その中心で、スペシャルデイズは静かに立っていた。
堂々と。誇らしげに。
皆の顔が綻んでいる。
蒼井も。大野田も。厩務員たちも。そして椿も。
その様子を見つめながら、スペシャルデイズは小さく息を吐いた。
「……勝てて、良かった」
空を見上げる。
厚い雲はいつの間にか薄れ、東京競馬場には柔らかな日差しが差し込んでいた。
スペシャルデイズは目を細める。
身体の重だるさが、今日はやけに心地よく感じた。
今日、自分はダービー馬になった。
そしてきっと──、
この景色を、一生忘れない。
◇
北海道、ヤシロファーム。
とある部屋でテレビを見ていた青鹿毛の牡馬は、興奮が止まないテレビを静かに消して立ち上がった。
その瞼は閉じられたままで、先ほどのレースを反芻していた。
「……強かった」
ポツリとこぼられたのは、ダービー馬となったスペシャルデイズへの称賛であった。
サンデー産駒、二頭目のダービー馬だ。じわじわと込み上げる喜び。思わず口元がニマリとゆるむ。
「この脚があれば、世界とも戦えるな。デイズのこれからが楽しみだ」
まずは秋の菊花賞で二冠を。
そして、ジャパンカップでは世界との戦いだ。
そんな青写真を描きながら、ふふふと声を出してサンデーは笑った。
「こうしちゃいられない!早く海外馬の情報──」
「ちょっとサンデーさん!厩舎に戻る時間過ぎてますよ!そんなとこで立ってないで、早く移動してください!」
担当厩務員のアンナが目をつり上げて部屋にやってきた。
「……すまん。すぐに帰る」
すごすごとサンデーは自室へと帰っていった。その足取りはどこか弾んでいるようだった。
お読みいただきありがとうございました!
三章後編はもう少しだけ続きます。
次は閑話を挟んで、スペシャルデイズ、三歳秋の物語です。
2年ほど書いてきた本作ですが、ようやく最終章が近づいてきました。
最後まで走りますので応援していただければ嬉しいです。
次回は7月19日22:20の予定です~
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