56 絶頂。
ダービー編完結です!
前回のあらすじ
クラウンヘイローの逃げ、カイウンスカイの出負けで始まったダービー。何とか盛り返したカイウンスカイが逃げるクラウンヘイローに圧力をかけたまま、勝負の直線を迎えた。
56
───『各馬、最後の直線へ!! カイウンスカイが前に出た! 皐月賞馬が先頭に立つ! 十八頭を従えて、運命の五百二十五メートルへ!!』───
地鳴りのような歓声が降り注ぐ。
東京競馬場が揺れていた。十八頭の蹄音と何万人もの絶叫が混ざり合い、一つの巨大な熱となってターフを包み込んでいる。
その中心にいたのは芦毛の皐月賞馬だった。
◇
「行くぞ、スカイ!」
立仲が手綱を押すと、素早くカイウンスカイが応えた。
クラウンヘイローに並びかける。
さらに半馬身。首ひとつ前に出る。このレースで初めてカイウンスカイが先頭へ出た。
───『カイウンスカイ先頭!! 皐月賞馬が直線入口で早くも先頭へ躍り出た!!』───
歓声がさらに膨れ上がる。スタンドのあちこちから名前が飛ぶ。
「行けぇぇ!!」
「二冠だ!!」
「押し切れスカイ!!」
立仲は前だけを見ていた。苦しい。決して楽ではない。
だが、脚は残っている。まだ余力が残っているのが、手綱の先から力が、伝わってくる。
(いける)
そう思った。
東京の二千四百メートルは逃げ馬には厳しい舞台だ。
だからこそ早めに動いた。
だからこそ三コーナーからプレッシャーをかけ続けた。
(これなら押し切れる)
ダービー馬になれる。
その言葉が立仲の頭をよぎった。
◇
一方、内ラチ沿いで、福河は必死だった。
「負けるな!クラウン!!」
連続で左ムチを繰り出す。
バシッ!! 乾いた音が響くと、クラウンヘイローが再びハミを噛んだ。
ガチッ、という感触とともに再び前へと進む。
まだ終わっていない。まだ脚はある。
先頭に並ぶ。そのまま前へ、前へとクラウンヘイローはゴールを目指した。
だが──
クラウンヘイローの首が少しずつ上がる。乱れて、苦しそうな呼吸音。
「頑張れ、クラウン……!」
福河の声が震える。
クラウンの脚色が鈍り始める。
福河には分かってしまった。もう、限界が近いことが。
外からカイウンスカイが差し替えしてくる。
さらにその外からタマルアゲインとエモジロン。自身の後ろにも差し馬たちが迫ってきている。
──飲み込まれる。
その言葉が福河の頭によぎった。
夢にまで見たダービー馬への道が、ガラガラと崩れていった。
◇
───『残り四百メートル!! 内クラウンヘイロー! 外カイウンスカイ!! タマルアゲインも食らいつく!! エモジロンも差がない!!』───
観客席の誰もが立ち上がっていた。
拳を握る者。祈る者。大声で馬の名前を叫ぶ者。
そして──
馬群の後方に目を向けていた誰かが、呟いた。
「……来た」
その声は掻き消されそうなほど小さい呟き。だが、一人。また一人と、その存在を認知するものが現れる。
「来たぞ」
「来た来た来た」
「来たぁぁぁぁ!!」
海岸に打ち寄せる波のように、その声は大きな絶叫となり、観客席を塗りつぶした。
◇
スペシャルデイズは静かだった。
驚くほど静かだった。
歓声が、蹄音が、馬たちの呼吸でさえも遠く感じていた。だが、視界は鮮明で遠くのものも見通せる気がした。
(……気持ちいい)
デイズは、そう思った。
力を抜く。焦ることはない。そう言い聞かせて、デイズは前だけを見つめる。
背中からは椿の呼吸が伝わる。
直線が近いのに、自分の心がおどろくほど冷静だった。
「──いくで」
耳が後ろを向く。その瞬間、壁が消えた。
馬群が開く。
風が吹き抜ける。
デイズの目の前には、広大なターフが現れた。
前へ。もっと前へ行ける。
スペシャルデイズの瞳に光が宿る。
「……行かなきゃ」
自然と言葉が漏れた。
脚を出す。地面を蹴る。もう一度蹴る。
世界が後ろへ流れ始めた。
その景色はこれまでのどのレースとも違う。デイズが生まれて初めて見る世界だった。
◇
───『馬場の真ん中からスペシャルデイズ!! 強烈な末脚で前との差を一気に詰める!!』───
実況が絶叫する。
その脚色は明らかに違った。
カイウンスカイ。タマルアゲイン。エモジロン。
先頭を争っていた集団との差がみるみる縮まる。
───『さらに間を縫ってダイヤスペリアーもやってくる! 大外からはコールドエンペラーも伸びてきた!!』───
ここで伏兵たちも先頭集団に襲いかかる。
だが、それでも──赤い帽子だけ勢いが違った。
弾丸のような伸びで、ターフを一文字に切り裂いた。
◇
立仲は背後の気配に気づいた。
速い。あまりにも速い。
「……来たか」
振り返らなくても分かる。
赤い帽子、スペシャルデイズだ。
立仲の視線は、残り二百のハロン棒を捉えた。
まだ先頭はカイウンスカイ。まだ差がある。
このまま押し切るだけの脚は残ってる。そう、立仲は考えた。
だが、──次の瞬間には、そのリードが消えていた。
「なっ……」
並ばれた。いや、違う。
並ばれていない。
交わされた。
一瞬で。
◇
───『スペシャルデイズ!!』───
一馬身。
───『並ぶ間もなくカイウンスカイを交わして先頭!!』───
二馬身。
───『速い!突き抜ける!!』───
三馬身。
あっという間に、その差が広がる。
立仲は目を見開いた。
「何だよ……あの脚……」
勝負処で全く相手にならない。食い下がることすらできない。
『早め先頭での押し切り』は、直線の長い東京でスカイが勝つための理想の形。
スタートはいまいちだったが、それからは想定どおりのレースができた。
勝てる、と思った。
だが──、
その全てを踏み潰された。想定を上回り、赤帽子ははるか前方を走っている。
悔しい。
悔しい。
それでも──
(まだ終わっちゃいない)
二着だけは……、二着だけは守る。
立仲が再び前を向き、相棒へムチを振るった。
◇
残り百メートル。
し烈な二番手争いをよそに、先頭は遥か前を行く。
栄光のゴールへ。先頭を走るのはスペシャルデイズ。
その背を追って、内カイウンスカイ、中ダイヤスペリアー、外コールドエンペラー。
三頭が横一線で叩き合う。
その後ろでクラウンヘイローも懸命に踏ん張っていた。
だが脚は残っていない。それでも……それでも、最後まで──
◇
───『クラウンヘイロー後退!!脚が止まったか!!』───
三強の一角が馬群に飲まれていく。それを尻目に、皐月賞馬は必死に抵抗を続ける。
───『カイウンスカイ粘る!! しかし、ダイヤスペリアーが差を詰める!! そして外からはコールドエンペラーも来ているぞ!! 三頭の争いになった!!』───
しかし──
───『先頭は遥か前!! スペシャルデイズが完全に抜け出した!!』───
実況の声が裏返る。一完歩ごとにゴール板が近づいてくる。
───『勝ったのはスペシャルデイズ!! やっぱりこの馬は強かったぁぁぁぁぁ!!』───
爆発する歓声。
舞い散る紙吹雪。
ゴールの瞬間──、
椿が拳を天へと突き上げた。
◇
ゆっくりと手綱を緩める。
歓声が戻ってくる。
張り詰めていた世界が、少しずつ元へと戻っていった。
「おつかれさん」
首筋を撫でられる。
「やったな。ダービー馬や」
スペシャルデイズは大きく息を吐いた。全身から力が抜ける。
直後──、脚が急に重くなった。
「……疲れた」
それでも少しだけ笑う。
「でも、勝てて良かった」
椿も笑った。
「俺もや」
スタンドからの『椿コール』が聞こえてくる。
ジャポンダービーを制したのは、スペシャルデイズ。
そしてそれは──
椿航が初めてダービーを勝ったことを意味していた。
長く競馬界に語られてきた一つのジンクス。
"椿はダービーを勝てない"
その言葉は、今日、この瞬間に幕引きとなった。
東京競馬場を包む歓声は、鳴り止まない。
デイズと椿は、込み上げてくる達成感を噛み締めながら、観客の待つスタンド前へとゆっくりと走り出した。
雲の切れ間から差し込む日差しを受け、艶やかに煌めく馬体。
早くもその姿は、栄誉あるダービー馬としての風格をまとっていた。
お読みいただきありがとうございました!
スペシャルの末脚の切れ、伝わりましたかね?
リアルレースの実況がすごーく印象的でした!
次回は7月末ごろの更新予定です。
ダービー後のあれこれなる模様(ФωФ)
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