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55/56

55 紛糾。

お待たせしましたー


前回のあらすじ

ダービー当日。一番人気はスペシャルデイズに。ダービーの発走時間がせまり、枠入りが始まるが、入れ込む馬が多い。そんな中、人気の一角クラウンヘイローがゲート入りを嫌がってなかなか入らない。不穏な空気の中、ダービーのレースがスタートした。

55 


───『なんと先頭はクラウンヘイロー! 福河祐介、十八頭を従えるように先頭へ立ちました!!』───



 どよめきが、いつまでも止まらない。


 一コーナーへ雪崩れ込む十八頭。その最内で、白い帽子のクラウンヘイローが先頭に立っていた。


 『まさか』


 誰かの呟きが、大きなどよめきに飲み込まれる。


 だが確かに、福河祐介とクラウンヘイローがダービーの先頭へと立っていた。



───『先頭から半馬身差の外にタマルアゲイン。そのさらに外にエモジロン。


 そして、皐月賞馬はここにいました。カイウンスカイは四番手から前をうかがいます』───



 大外から灰色の馬体がぬるりと押し上げていく。芦毛の皐月賞馬が、静かに前へ迫っていった。


 空を覆う雲が、太陽を呑み込む。芝コースに大きな影が落ちていった。


 熱狂のはずの東京競馬場は、なぜか息苦しいほど静まり返っていた。


 歓声はある。


 だが、その奥に、言葉にできない不穏が渦巻いている。



───何かが起こる。



 そんな予感だけが、重たく空気に沈殿していた。




───『カイウンスカイ、二番手へ浮上! その内にタマルアゲインとエモジロンがいます。 


 一番人気スペシャルデイズは椿が手綱を押さえている。今日も馬群の中で競馬になりそうだ!』───




 一コーナーから二コーナーへ。レースを見る誰もが驚愕したクラウンヘイローの逃げ。


 しかし、クラウンヘイローの背に乗る福河祐介の頭は真っ白だった。


(どうする……!?)


 心臓の音がうるさい。手綱を持つ指先に汗が滲む。

 

 クラウンヘイローは行く気になっている。行きたがっている。


 スタート前、あれだけイレ込んでいたのだ。だからこそ、スタートだけは細心の注意を払った。


 落ち着かせて。我慢させて。無理をさせずに。


 その結果が——先頭。


(いや、待て……)


 一瞬、手綱を引きかける。


 だが、クラウンヘイローの首がグッと前へ伸びた。


『行きたい』


 そう全身で訴えている。



(今抑えたら、喧嘩になる……!)


 脳裏を不安が駆け巡る。逃げるのか。  このまま?  いや、東京二千四百だぞ?


 飛ばしたら最後に止まるやろ。 でも抑えたら掛かるかもしれへん。


 離して行くか? いや、後ろが怖い。


 競られたら?ペースは?どのくらいだ?


(あかん、分からへん……!)


 若き騎手の迷いを乗せたまま、クラウンヘイローの蹄だけが芝を叩き続ける。


 妙に乾いた音だった。



 「前に誰もいない……? なんで?」



 クラウンヘイロー自身も戸惑っていた。


 いつもは誰かを見る立場だ。追いかける立場だ。


 なのに今日は、誰も前にいない。広すぎる景色。


 背後から押し寄せる無数の気配。耳がせわしなく動く。後ろにいる。たくさんいる。


 怖い。


 逃げたい。


 後ろから迫ってくる何か。 



 大きな口を開けた巨大生物からの圧力が、クラウンヘイローと福河を塗りつぶしていった。





 立仲は静かに息を吐いた。


 灰色の馬体が、じわりと二番手へ収まる。



「いいぞ、スカイ。このままや」



 ぶふん、とカイウンスカイが鼻を鳴らした。


 だが、立仲の表情は晴れない。


(……珍しい)


 スタートで遅れた。あのカイウンスカイが。ゲートを苦にしないこの馬が。


 もちろん、大きな不利ではない。すぐに巻き返した。前も遅かったおかげで、前目の位置は取れた。


 だが、“らしくない”。


 その違和感が、喉奥に小骨のように引っかかっていた。



 カイウンスカイの耳が、ピクリと動く。その視線の先には逃げるクラウンヘイローがいた。



「様子がおかしい……」



 芦毛の馬が、低く息を吐く。


 自身の左前を走る馬から、焦りの匂いがした。蹄音が硬い。呼吸が浅い。力が入っている。



 カイウンスカイと同じく前の馬に不穏さを感じ取った立仲は、あえて並びかけず、ぴったりと外から追走した。


 楽には行かせない。


 プレッシャーをかけ続ける。


 それが、皐月賞馬のセカンドプランだった。




 二コーナーから向こう正面へ入るが、隊列は変わらなかった。


───『クラウンヘイロー先頭。 すぐ外にカイウンスカイが二番手の位置。  


その後ろにタマルアゲインとエスパッションが続きます。二馬身ほど開いて後続が固まって続いていきます』───



 ペースは遅い。遅すぎる。



───『前半はかなり落ち着いた流れとなりました! 福河の狙いどおりの展開なのか?! 皐月賞馬も二番手につける! 後続はこのまま逃がしていいのか?! 』───



 スローペースは前にいる馬が有利。


競馬に関わる人なら誰もが知っている理。



 だが、このレースでは、誰も楽をしていなかった。


 むしろ逆。遅いからこそ、全員が動けないでいた。


 先に動いたら負ける。


 動けない。動きたくない。


 そんな空気が馬群を支配していた。


 牽制。 我慢。 探り合い。



 十八頭の神経が、ぎりぎりと擦れ合っていた。




 観客たちも息を呑む。


(この流れ、嫌だな……)


(どこかで一気に来るぞ)


(馬群、詰まりすぎてる……)


 しんがりのエリノソルジャーまで、およそ十馬身。


 ダービーでは珍しいほど、凝縮された隊列。


 ほんのわずかな接触。 たった一度の進路取り。それだけで夢が終わってしまう。


 空気が重い。 雲が低い。


 東京競馬場全体が、巨大な圧力鍋のようだった。




 赤い帽子のスペシャルデイズは、中団の内にいた。 


 現在は、十番手付近か。


 その前には三重の壁があった。


 前にも馬。  外にも馬。  ギチギチで逃げ場がない。


 一番人気馬への、徹底した警戒体勢がしかれていた。


 スペシャルデイズの耳がピクリと動く。



「……狭い」



 前後から、横から迫る馬体。少し動くたびにぶつかりそうになる。


 荒い鼻息。 芝の匂い。 汗の匂い。


 苦しい。 前へ行きたい。


 だが、椿の手綱は静かだった。



「まだや」



 落ち着いた、低い声が喧騒を掻き分けてスペシャルデイズの耳に届いた。


 スペシャルデイズは耳を後ろへ向ける。


 椿の呼吸を聞く。 焦っていない。 慌てていない。


 だから、デイズはすんなりと “我慢” を受け入れた。





 前の隙間。  外の流れ。  馬群の揺らぎ。


 椿の視線が、絶えず進路を探しているのが伝わってくる。



「大丈夫や。進路は任せろ」



 ……なら、信じる。


 スペシャルデイズは力を溜め込むように、静かに息を吐いた。




 三コーナー手前。


 もう待てないとばかりに、後続が差を詰め始めた。


 先頭のクラウンヘイローを目掛けて、じわじわっと馬群がさらに密集していった



 ガツッと馬体がぶつかる音。


カチャカチャ、と鐙の金属音が鳴る。


 誰かの短い怒声。馬体が擦れる。十八頭の熱が、渦になって一気に膨れ上がっていった。



───『各馬、三コーナーへ! ここでスペシャルデイズは——おっと!?』───



 実況の声が跳ねた!


 いつの間にか。 本当に、いつの間にか。


 スペシャルデイズが中団の外へ持ち出されていた。


 さっきまで、前も外も塞がれていたはずだった。


 だが、椿は見逃さなかった。一頭が外へ膨れるのを。


 半頭ぶん空いた隙間。その隙間に潜り込む。


 水が流れるように。  刃が鞘を抜けるように。 スペシャルデイズは外へ抜けていた。



「……行ける」



 自身の声と背中からの声が重なった。


 デイズの瞳に、火が灯る。

空気が変わった。


 背中の椿から、静かな殺気が伝わってくる。





───『四コーナーへ向かいます!ここで、ついにカイウンスカイが先頭へ並びかける!後続もすぐ後ろへ迫ってきているぞ!』───



 クラウンヘイローの息が荒い。


 その外から、オレンジ帽の二騎が一気に迫る。


 歓声が早くも爆発する。地鳴りのような声が膜のようにターフを包んでいる。


 耳を裂く絶叫。


 大観衆の熱狂が、馬たちを呑み込んでいく。



「いくぞ、スカイ!ここからが勝負だ!」



 立仲がムチを構え、大きな動きで手綱をしごく。


 カイウンスカイが前を見る。内ではクラウンヘイローが必死に抵抗する。



「……来る」



 カイウンスカイは耳を外に向ける。

自身の外側からものすごい殺気が飛んでくる。


橙帽子?


いや、違う。



───もっと外だ。





───『各馬、最後の直線へ!! カイウンスカイが前に出た! 先頭は皐月賞馬だ! 十八頭を従えて、運命の五百二十五メートルへ!!』───



 その瞬間。


 厚い雲の切れ間から、一筋の光が東京競馬場へ差し込んだ。


お読みいただきありがとうございました!


ようやく次回でダービー編が完結の予定です。

またしばらく更新が空くと思います。


7月中には更新できるように少しずつ書いていきます。


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