55 紛糾。
お待たせしましたー
前回のあらすじ
ダービー当日。一番人気はスペシャルデイズに。ダービーの発走時間がせまり、枠入りが始まるが、入れ込む馬が多い。そんな中、人気の一角クラウンヘイローがゲート入りを嫌がってなかなか入らない。不穏な空気の中、ダービーのレースがスタートした。
55
───『なんと先頭はクラウンヘイロー! 福河祐介、十八頭を従えるように先頭へ立ちました!!』───
どよめきが、いつまでも止まらない。
一コーナーへ雪崩れ込む十八頭。その最内で、白い帽子のクラウンヘイローが先頭に立っていた。
『まさか』
誰かの呟きが、大きなどよめきに飲み込まれる。
だが確かに、福河祐介とクラウンヘイローがダービーの先頭へと立っていた。
───『先頭から半馬身差の外にタマルアゲイン。そのさらに外にエモジロン。
そして、皐月賞馬はここにいました。カイウンスカイは四番手から前をうかがいます』───
大外から灰色の馬体がぬるりと押し上げていく。芦毛の皐月賞馬が、静かに前へ迫っていった。
空を覆う雲が、太陽を呑み込む。芝コースに大きな影が落ちていった。
熱狂のはずの東京競馬場は、なぜか息苦しいほど静まり返っていた。
歓声はある。
だが、その奥に、言葉にできない不穏が渦巻いている。
───何かが起こる。
そんな予感だけが、重たく空気に沈殿していた。
◇
───『カイウンスカイ、二番手へ浮上! その内にタマルアゲインとエモジロンがいます。
一番人気スペシャルデイズは椿が手綱を押さえている。今日も馬群の中で競馬になりそうだ!』───
一コーナーから二コーナーへ。レースを見る誰もが驚愕したクラウンヘイローの逃げ。
しかし、クラウンヘイローの背に乗る福河祐介の頭は真っ白だった。
(どうする……!?)
心臓の音がうるさい。手綱を持つ指先に汗が滲む。
クラウンヘイローは行く気になっている。行きたがっている。
スタート前、あれだけイレ込んでいたのだ。だからこそ、スタートだけは細心の注意を払った。
落ち着かせて。我慢させて。無理をさせずに。
その結果が——先頭。
(いや、待て……)
一瞬、手綱を引きかける。
だが、クラウンヘイローの首がグッと前へ伸びた。
『行きたい』
そう全身で訴えている。
(今抑えたら、喧嘩になる……!)
脳裏を不安が駆け巡る。逃げるのか。 このまま? いや、東京二千四百だぞ?
飛ばしたら最後に止まるやろ。 でも抑えたら掛かるかもしれへん。
離して行くか? いや、後ろが怖い。
競られたら?ペースは?どのくらいだ?
(あかん、分からへん……!)
若き騎手の迷いを乗せたまま、クラウンヘイローの蹄だけが芝を叩き続ける。
妙に乾いた音だった。
「前に誰もいない……? なんで?」
クラウンヘイロー自身も戸惑っていた。
いつもは誰かを見る立場だ。追いかける立場だ。
なのに今日は、誰も前にいない。広すぎる景色。
背後から押し寄せる無数の気配。耳がせわしなく動く。後ろにいる。たくさんいる。
怖い。
逃げたい。
後ろから迫ってくる何か。
大きな口を開けた巨大生物からの圧力が、クラウンヘイローと福河を塗りつぶしていった。
◇
立仲は静かに息を吐いた。
灰色の馬体が、じわりと二番手へ収まる。
「いいぞ、スカイ。このままや」
ぶふん、とカイウンスカイが鼻を鳴らした。
だが、立仲の表情は晴れない。
(……珍しい)
スタートで遅れた。あのカイウンスカイが。ゲートを苦にしないこの馬が。
もちろん、大きな不利ではない。すぐに巻き返した。前も遅かったおかげで、前目の位置は取れた。
だが、“らしくない”。
その違和感が、喉奥に小骨のように引っかかっていた。
カイウンスカイの耳が、ピクリと動く。その視線の先には逃げるクラウンヘイローがいた。
「様子がおかしい……」
芦毛の馬が、低く息を吐く。
自身の左前を走る馬から、焦りの匂いがした。蹄音が硬い。呼吸が浅い。力が入っている。
カイウンスカイと同じく前の馬に不穏さを感じ取った立仲は、あえて並びかけず、ぴったりと外から追走した。
楽には行かせない。
プレッシャーをかけ続ける。
それが、皐月賞馬のセカンドプランだった。
◇
二コーナーから向こう正面へ入るが、隊列は変わらなかった。
───『クラウンヘイロー先頭。 すぐ外にカイウンスカイが二番手の位置。
その後ろにタマルアゲインとエスパッションが続きます。二馬身ほど開いて後続が固まって続いていきます』───
ペースは遅い。遅すぎる。
───『前半はかなり落ち着いた流れとなりました! 福河の狙いどおりの展開なのか?! 皐月賞馬も二番手につける! 後続はこのまま逃がしていいのか?! 』───
スローペースは前にいる馬が有利。
競馬に関わる人なら誰もが知っている理。
だが、このレースでは、誰も楽をしていなかった。
むしろ逆。遅いからこそ、全員が動けないでいた。
先に動いたら負ける。
動けない。動きたくない。
そんな空気が馬群を支配していた。
牽制。 我慢。 探り合い。
十八頭の神経が、ぎりぎりと擦れ合っていた。
観客たちも息を呑む。
(この流れ、嫌だな……)
(どこかで一気に来るぞ)
(馬群、詰まりすぎてる……)
しんがりのエリノソルジャーまで、およそ十馬身。
ダービーでは珍しいほど、凝縮された隊列。
ほんのわずかな接触。 たった一度の進路取り。それだけで夢が終わってしまう。
空気が重い。 雲が低い。
東京競馬場全体が、巨大な圧力鍋のようだった。
◇
赤い帽子のスペシャルデイズは、中団の内にいた。
現在は、十番手付近か。
その前には三重の壁があった。
前にも馬。 外にも馬。 ギチギチで逃げ場がない。
一番人気馬への、徹底した警戒体勢がしかれていた。
スペシャルデイズの耳がピクリと動く。
「……狭い」
前後から、横から迫る馬体。少し動くたびにぶつかりそうになる。
荒い鼻息。 芝の匂い。 汗の匂い。
苦しい。 前へ行きたい。
だが、椿の手綱は静かだった。
「まだや」
落ち着いた、低い声が喧騒を掻き分けてスペシャルデイズの耳に届いた。
スペシャルデイズは耳を後ろへ向ける。
椿の呼吸を聞く。 焦っていない。 慌てていない。
だから、デイズはすんなりと “我慢” を受け入れた。
前の隙間。 外の流れ。 馬群の揺らぎ。
椿の視線が、絶えず進路を探しているのが伝わってくる。
「大丈夫や。進路は任せろ」
……なら、信じる。
スペシャルデイズは力を溜め込むように、静かに息を吐いた。
◇
三コーナー手前。
もう待てないとばかりに、後続が差を詰め始めた。
先頭のクラウンヘイローを目掛けて、じわじわっと馬群がさらに密集していった
ガツッと馬体がぶつかる音。
カチャカチャ、と鐙の金属音が鳴る。
誰かの短い怒声。馬体が擦れる。十八頭の熱が、渦になって一気に膨れ上がっていった。
───『各馬、三コーナーへ! ここでスペシャルデイズは——おっと!?』───
実況の声が跳ねた!
いつの間にか。 本当に、いつの間にか。
スペシャルデイズが中団の外へ持ち出されていた。
さっきまで、前も外も塞がれていたはずだった。
だが、椿は見逃さなかった。一頭が外へ膨れるのを。
半頭ぶん空いた隙間。その隙間に潜り込む。
水が流れるように。 刃が鞘を抜けるように。 スペシャルデイズは外へ抜けていた。
「……行ける」
自身の声と背中からの声が重なった。
デイズの瞳に、火が灯る。
空気が変わった。
背中の椿から、静かな殺気が伝わってくる。
◇
───『四コーナーへ向かいます!ここで、ついにカイウンスカイが先頭へ並びかける!後続もすぐ後ろへ迫ってきているぞ!』───
クラウンヘイローの息が荒い。
その外から、オレンジ帽の二騎が一気に迫る。
歓声が早くも爆発する。地鳴りのような声が膜のようにターフを包んでいる。
耳を裂く絶叫。
大観衆の熱狂が、馬たちを呑み込んでいく。
「いくぞ、スカイ!ここからが勝負だ!」
立仲がムチを構え、大きな動きで手綱をしごく。
カイウンスカイが前を見る。内ではクラウンヘイローが必死に抵抗する。
「……来る」
カイウンスカイは耳を外に向ける。
自身の外側からものすごい殺気が飛んでくる。
橙帽子?
いや、違う。
───もっと外だ。
───『各馬、最後の直線へ!! カイウンスカイが前に出た! 先頭は皐月賞馬だ! 十八頭を従えて、運命の五百二十五メートルへ!!』───
その瞬間。
厚い雲の切れ間から、一筋の光が東京競馬場へ差し込んだ。
お読みいただきありがとうございました!
ようやく次回でダービー編が完結の予定です。
またしばらく更新が空くと思います。
7月中には更新できるように少しずつ書いていきます。
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