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54/56

54 狼煙。

久しぶりの更新。

54 


 厚い雲が覆った空。雨は昨日のうちに上がったが、どんよりとした黒い雲が太陽の光を遮っていた。


 多くのファンが詰めかけた東京競馬場。彼らの視線の先には、パドックを歩く出走馬たちがいた。



「なんか、息苦しいな」



 誰かがゴクリと唾を飲み込む音が静かに響く。天気のせいか、それともダービーゆえの重圧からか。パドックはいつもよりも重苦しい空気が漂っていた。


 人の熱、声、視線が幾重にも重なり、馬たちを包んでいた。



「大野原先生、パドックの様子はいかがでしょうか。よく見える馬を、何頭か教えてください」



 アナウンサーに促され、鋭い眼光で十八頭を見渡していた大野原が、ゆっくりと姿勢を正した。



「……少し、イレ込んでる馬が多いですねぇ」



 低く、含みのある声。



「朝から異様な雰囲気です。まさにダービー、という感じでしょうか」



 小さく咳払いをひとつして、求められたコメントの続きを口にする。



「失礼。馬体だけで言えば、一番よく見えるのは……スペシャルデイズです」



 スタンドがざわめいた。



「うっすら肋が浮き上がっていますが、細さを感じさせません。気合いが乗っている。それでいて、余計な力みがない。全身から溢れ出るほどの気合いを感じますねぇ」



 大野原は続けて、皐月賞馬カイウンスカイ、そしてミツメルリュウホウ、タイコブライドルの名を挙げた。


 十八頭、十八通りの仕上げ。


 だが、この場に集まった誰もが理解していた。今日、この場所では100%の仕上げだけでは足りないことを。



 ───古くからダービーを制するのは、″最も運のある馬”だと言われる。


 レース中の幾重にも訪れる勝負の綾を押さえて、先頭でゴールするには運がいる。そしてその運を掴むには、平常心が必要だ。


 三歳の五月。まだまだ高校生くらいの若駒たちに問われるのは、精神面の強さだった。



 本馬場入場を前に、騎手たちは一列に並んでいた。ヘルメットを被り、手綱を握り、視線はそれぞれの騎乗馬へ注がれる。


 ふと、誰かが大きく息を吐いた。その直後、係員の合図が飛ぶ。



「──騎乗してください」



 一斉に騎手が動き出す。その足音が重なるようにパドックに響いた。



「祐介、頼むで。勝ってくれよ!」



 クラウンヘイローの引き綱を握る厩務員が、鞍に跨った福河祐介の目を真っ直ぐに見つめる。


 祐介は一拍置き、ゆっくりと頷いた。



「……任せてください」



 言葉は短い。だが、そこに迷いはなかった。




「スカイ。今日は晴れなそうだな」



 カイウンスカイの首元を軽く叩きながら、立仲が声をかける。



「幸い今日は暑さはそれほどだ。頑張ろうか」



 スカイが首を上下に振る。しかし、その芦毛の馬体は発汗が目立つ。



「暑いのは苦手……」



 大きく息を吐きながらスカイが答える。苦笑いを浮かべながら、立仲は再度首筋をポンポンと叩いた。




 椿はスペシャルデイズの前に立つ。スペシャルデイズと椿の視線が交差する。わずかなアイコンタクトののち、無言で椿は相棒の背中にまたがった。


 その瞬間、ピリッとスペシャルデイズの雰囲気が引き締まった。首を上下に使いながらリズム良く歩く。


 その歩く様は、威風堂々。皐月賞の頃のあどけなさからの成長を窺わせた。



「おい、雰囲気が全然違うぞ? 椿がパドックからゴーグル下ろすなんて珍しいな」


「これは勝負がけじゃないか?」



ヒソヒソと観客からそんな声が聞こえてくる。そんなことも意に介さず、スペシャルデイズと椿はまっすぐ前を見据え、歩みを進めた。




 一頭また一頭と、出走各馬はゆっくりと地下道へと入っていく。


 歓声が遠ざかり、代わりに地下道内は人と馬の歩く音が静かに響いていた。





───「スタンドからの手拍子を受け、玉座を狙う精鋭十八騎の本馬場入場です!」───



 実況の声を皮切りに、今日の主役たちを出迎える入場曲と手拍子が降り注ぐ。一際大きな歓声とともに、三強の一角が本馬場へ姿を現した。



───「偉大なる血の宿命。輝きを放つその末脚。その舞台は整った。一枠二番・クラウンヘイローと福河祐介」───



 頭を高く上げて口を割りながら、クラウンヘイローは芝の上を駆け出した。


(これ、やばいんやないかな)


本馬場に入って一段とテンションが高まったクラウン。ダービー初騎乗の若人に容赦なく注がれるプレッシャー。


 祐介の背中は、既にじっとりと湿っていた。





───『ファンは再びこの馬を推した。天才の悲願を叶えるため、栄冠を手にするために舞い戻った。一番人気のスペシャルデイズ。堂々と登場』───



 手綱が放されると、スペシャルデイズはゆっくりと歩き始めた。そして、芝の状態を確かめるように、静かにキャンターへと移っていった。


 ここで負ける訳にはいかない。


 牧場のみんな。厩舎のみんな。調教師。椿さん。皆の望みを叶えるために。


 そして、あの馬と同じ舞台に立つために。


 耳を前方に向けて、真剣な表情をしたデイズの首を手が撫でる。



「気合い、入りすぎやないか?まだレースまで時間あるで」



 デイズが少し振り返るように目を向けると、そこには柔らかく微笑む椿の顔があった。



「枠入りまではリラックスや。ほら、あそこに鳥が飛んでる。鳥もダービーを見たいんやな」



 思わず笑みがこぼれた。そんな訳ないでしょ。デイズは小さく嘶いて首を捻った。


 止まらない笑い。一転して和やかな雰囲気のまま、デイズと椿は待機所の列へと並んでいった。





───『緑の芝に芦毛の馬体が踊る踊る。三冠への挑戦権はこの馬だけのもの。皐月賞馬・カイウンスカイが二冠制覇へと向かいます』───



 立仲はスタンドを避けるように、外埒に沿ってカイウンスカイを走らせた。


(ギリギリ……かな)


 立仲はカイウンスカイのコンディションをそう見込む。


(それならそれで、走りようはある)


 調教時計の物足りなさからか、皐月賞馬が三番人気に甘んじている。立仲はそれが許せなかった。


(……もう一度、証明しないとな)


 静かに獲物を狙う肉食獣のように、爪を研ぎずして。


 待機所へ向かい、すーっと芦毛の馬体が小さくなっていった。



 


 








 ファンファーレの演奏が始まる。生演奏なのに一子乱れぬ見事な演奏が、ダービーという特別な一戦を際立たせた。


 その最後の一小節が終わると同時に、『ワァッ』と一気に歓声が弾ける。歓声は沸騰するマグマのような熱を放ちながら、東京競馬場の温度を急速に引き上げた。


 発走時間が迫る。




 スタンドを見上げ、蒼井は静かに息を吐いた。



「……頼むで」



 視線の先では、スペシャルデイズが滑らかに返し馬へと入っていく。


 その背には椿航。


 願いは、言葉にした瞬間に脆くなる。

 だから蒼井は、それ以上何も言わなかった。


 ──二分半。


 すべてを決めるには、あまりにも短く、あまりにも厳しい時間が、いま始まろうとしていた。




 係員の指示で、各馬がゲート前へと誘導される。白いシャツが走り、声が飛び交う。


 赤い帽子、五番のゼッケンをつけたスペシャルデイズが呼ばれ、早々にゲートへ向かう。


 耳は前を向き、目は澄み、気負いはない。堂々とした枠入りだった。



「少し待ってからな」



 椿が、いつも通りの柔らかい声で語りかける。



「最後の馬が入る時、教えるわ」



 首筋を撫でる感触に、デイズは静かに息を整えた。



(……あかん)


 福河祐介の胸に、嫌な感覚が走った。

 クラウンヘイローが、ゲートを嫌がる。


 一度、二度と後ろに下がって入り直す。大きく首を振り、ゼッケンの回りは汗で白くなっていた。


 周囲の空気に、完全に当てられている。



「落ち着くんや、クラウン!」



 必死に宥めようとするが、焼け石に水だ。馬体は熱を帯び、神経が尖っているのが伝わってくる。


 係員からメンコつけるよ、と声がかかる。嫌がるクラウンの顔を面子が覆った。


 冷たい汗が、首筋を伝った。


 頼む──。


 祈るような気持ちで促すと、ようやくクラウンヘイローは枠に収まった。



「落ち着いて……もうすぐや」



 声をかけても、イライラが消えない。ふと、外を見ると、十八番のゼッケンがゲートに向かうのが目に入った。


(……最悪や)


 嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。




 ──ゲート入り完了。


 一瞬の沈黙。


 誰かが唾を飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。



───ガシャンッ!!


 乾いた金属音が弾け、十八の扉が勢いよく開いた。





───『スタートしました! あ、出遅れだ!!』───



 スタート直後の悲鳴。逃げ宣言をしていたカイウンスカイは、他馬より一拍遅れてのスタートとなった。


 その後ろでより大きく出遅れたのは、八番エリノソルジャー。



───『スタンドがどよめいています。スタート直後から波乱の展開となりました。さあ、誰が逃げるのか』───



 カイウンスカイは逃げられず。積極的に逃げたい馬もおらず、先行勢はチラチラと横を確認しながら、お互いを牽制する。


 そのまま一コーナーへ。最内を走るクラウンヘイローが押し出されるように、そのまま先頭へ立つ。いや、立ってしまった。


 東京競馬場が、再びどよめいた。




 赤い帽子のスペシャルデイズは悪くないスタートを切った。ダービーポジションを意識すれば、このまま好位につけるのも手だ。


 だが、椿はすぐに手綱を引き、中段へとポジションを下げていった。


 皐月賞では位置取りに泣いた。その記憶に新しい苦みは、この大舞台で嫌がおうにも思い出させる。


 しかし、椿はスペシャルデイズの良さを出すため、迷うことなく手綱を引いた。

 

 皐月賞の雪辱を果たすための選択ではない。スペシャルデイズが一番強いレースをするための選択だった。



 負けたくない。勝ちたい。──勝たなければならない。


 一番人気の重圧と、勝利への渇望を絡め取りながら、椿とスペシャルデイズは、静かに息を潜めていく。


 包まれるかもしれない。


 進路を失うかもしれない。


 それでも、この馬の末脚を、信じ切るために。


 ダービーは、もう動き出していた。


お読みいただきありがとうございました!

次回は6月末ころの更新が目標です。

ダービー編はあと3話くらいでまとめる予定です。


それではまた次の更新で。


==============

☆☆☆☆☆→★★★★★にしてもいいよ 


という優しい方、★お願いしますー

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