54 狼煙。
久しぶりの更新。
54
厚い雲が覆った空。雨は昨日のうちに上がったが、どんよりとした黒い雲が太陽の光を遮っていた。
多くのファンが詰めかけた東京競馬場。彼らの視線の先には、パドックを歩く出走馬たちがいた。
「なんか、息苦しいな」
誰かがゴクリと唾を飲み込む音が静かに響く。天気のせいか、それともダービーゆえの重圧からか。パドックはいつもよりも重苦しい空気が漂っていた。
人の熱、声、視線が幾重にも重なり、馬たちを包んでいた。
「大野原先生、パドックの様子はいかがでしょうか。よく見える馬を、何頭か教えてください」
アナウンサーに促され、鋭い眼光で十八頭を見渡していた大野原が、ゆっくりと姿勢を正した。
「……少し、イレ込んでる馬が多いですねぇ」
低く、含みのある声。
「朝から異様な雰囲気です。まさにダービー、という感じでしょうか」
小さく咳払いをひとつして、求められたコメントの続きを口にする。
「失礼。馬体だけで言えば、一番よく見えるのは……スペシャルデイズです」
スタンドがざわめいた。
「うっすら肋が浮き上がっていますが、細さを感じさせません。気合いが乗っている。それでいて、余計な力みがない。全身から溢れ出るほどの気合いを感じますねぇ」
大野原は続けて、皐月賞馬カイウンスカイ、そしてミツメルリュウホウ、タイコブライドルの名を挙げた。
十八頭、十八通りの仕上げ。
だが、この場に集まった誰もが理解していた。今日、この場所では100%の仕上げだけでは足りないことを。
───古くからダービーを制するのは、″最も運のある馬”だと言われる。
レース中の幾重にも訪れる勝負の綾を押さえて、先頭でゴールするには運がいる。そしてその運を掴むには、平常心が必要だ。
三歳の五月。まだまだ高校生くらいの若駒たちに問われるのは、精神面の強さだった。
◇
本馬場入場を前に、騎手たちは一列に並んでいた。ヘルメットを被り、手綱を握り、視線はそれぞれの騎乗馬へ注がれる。
ふと、誰かが大きく息を吐いた。その直後、係員の合図が飛ぶ。
「──騎乗してください」
一斉に騎手が動き出す。その足音が重なるようにパドックに響いた。
◇
「祐介、頼むで。勝ってくれよ!」
クラウンヘイローの引き綱を握る厩務員が、鞍に跨った福河祐介の目を真っ直ぐに見つめる。
祐介は一拍置き、ゆっくりと頷いた。
「……任せてください」
言葉は短い。だが、そこに迷いはなかった。
◇
「スカイ。今日は晴れなそうだな」
カイウンスカイの首元を軽く叩きながら、立仲が声をかける。
「幸い今日は暑さはそれほどだ。頑張ろうか」
スカイが首を上下に振る。しかし、その芦毛の馬体は発汗が目立つ。
「暑いのは苦手……」
大きく息を吐きながらスカイが答える。苦笑いを浮かべながら、立仲は再度首筋をポンポンと叩いた。
◇
椿はスペシャルデイズの前に立つ。スペシャルデイズと椿の視線が交差する。わずかなアイコンタクトののち、無言で椿は相棒の背中にまたがった。
その瞬間、ピリッとスペシャルデイズの雰囲気が引き締まった。首を上下に使いながらリズム良く歩く。
その歩く様は、威風堂々。皐月賞の頃のあどけなさからの成長を窺わせた。
「おい、雰囲気が全然違うぞ? 椿がパドックからゴーグル下ろすなんて珍しいな」
「これは勝負がけじゃないか?」
ヒソヒソと観客からそんな声が聞こえてくる。そんなことも意に介さず、スペシャルデイズと椿はまっすぐ前を見据え、歩みを進めた。
一頭また一頭と、出走各馬はゆっくりと地下道へと入っていく。
歓声が遠ざかり、代わりに地下道内は人と馬の歩く音が静かに響いていた。
◇
───「スタンドからの手拍子を受け、玉座を狙う精鋭十八騎の本馬場入場です!」───
実況の声を皮切りに、今日の主役たちを出迎える入場曲と手拍子が降り注ぐ。一際大きな歓声とともに、三強の一角が本馬場へ姿を現した。
───「偉大なる血の宿命。輝きを放つその末脚。その舞台は整った。一枠二番・クラウンヘイローと福河祐介」───
頭を高く上げて口を割りながら、クラウンヘイローは芝の上を駆け出した。
(これ、やばいんやないかな)
本馬場に入って一段とテンションが高まったクラウン。ダービー初騎乗の若人に容赦なく注がれるプレッシャー。
祐介の背中は、既にじっとりと湿っていた。
───『ファンは再びこの馬を推した。天才の悲願を叶えるため、栄冠を手にするために舞い戻った。一番人気のスペシャルデイズ。堂々と登場』───
手綱が放されると、スペシャルデイズはゆっくりと歩き始めた。そして、芝の状態を確かめるように、静かにキャンターへと移っていった。
ここで負ける訳にはいかない。
牧場のみんな。厩舎のみんな。調教師。椿さん。皆の望みを叶えるために。
そして、あの馬と同じ舞台に立つために。
耳を前方に向けて、真剣な表情をしたデイズの首を手が撫でる。
「気合い、入りすぎやないか?まだレースまで時間あるで」
デイズが少し振り返るように目を向けると、そこには柔らかく微笑む椿の顔があった。
「枠入りまではリラックスや。ほら、あそこに鳥が飛んでる。鳥もダービーを見たいんやな」
思わず笑みがこぼれた。そんな訳ないでしょ。デイズは小さく嘶いて首を捻った。
止まらない笑い。一転して和やかな雰囲気のまま、デイズと椿は待機所の列へと並んでいった。
───『緑の芝に芦毛の馬体が踊る踊る。三冠への挑戦権はこの馬だけのもの。皐月賞馬・カイウンスカイが二冠制覇へと向かいます』───
立仲はスタンドを避けるように、外埒に沿ってカイウンスカイを走らせた。
(ギリギリ……かな)
立仲はカイウンスカイのコンディションをそう見込む。
(それならそれで、走りようはある)
調教時計の物足りなさからか、皐月賞馬が三番人気に甘んじている。立仲はそれが許せなかった。
(……もう一度、証明しないとな)
静かに獲物を狙う肉食獣のように、爪を研ぎずして。
待機所へ向かい、すーっと芦毛の馬体が小さくなっていった。
◇
ファンファーレの演奏が始まる。生演奏なのに一子乱れぬ見事な演奏が、ダービーという特別な一戦を際立たせた。
その最後の一小節が終わると同時に、『ワァッ』と一気に歓声が弾ける。歓声は沸騰するマグマのような熱を放ちながら、東京競馬場の温度を急速に引き上げた。
発走時間が迫る。
スタンドを見上げ、蒼井は静かに息を吐いた。
「……頼むで」
視線の先では、スペシャルデイズが滑らかに返し馬へと入っていく。
その背には椿航。
願いは、言葉にした瞬間に脆くなる。
だから蒼井は、それ以上何も言わなかった。
──二分半。
すべてを決めるには、あまりにも短く、あまりにも厳しい時間が、いま始まろうとしていた。
◇
係員の指示で、各馬がゲート前へと誘導される。白いシャツが走り、声が飛び交う。
赤い帽子、五番のゼッケンをつけたスペシャルデイズが呼ばれ、早々にゲートへ向かう。
耳は前を向き、目は澄み、気負いはない。堂々とした枠入りだった。
「少し待ってからな」
椿が、いつも通りの柔らかい声で語りかける。
「最後の馬が入る時、教えるわ」
首筋を撫でる感触に、デイズは静かに息を整えた。
◇
(……あかん)
福河祐介の胸に、嫌な感覚が走った。
クラウンヘイローが、ゲートを嫌がる。
一度、二度と後ろに下がって入り直す。大きく首を振り、ゼッケンの回りは汗で白くなっていた。
周囲の空気に、完全に当てられている。
「落ち着くんや、クラウン!」
必死に宥めようとするが、焼け石に水だ。馬体は熱を帯び、神経が尖っているのが伝わってくる。
係員からメンコつけるよ、と声がかかる。嫌がるクラウンの顔を面子が覆った。
冷たい汗が、首筋を伝った。
頼む──。
祈るような気持ちで促すと、ようやくクラウンヘイローは枠に収まった。
「落ち着いて……もうすぐや」
声をかけても、イライラが消えない。ふと、外を見ると、十八番のゼッケンがゲートに向かうのが目に入った。
(……最悪や)
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
◇
──ゲート入り完了。
一瞬の沈黙。
誰かが唾を飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。
───ガシャンッ!!
乾いた金属音が弾け、十八の扉が勢いよく開いた。
───『スタートしました! あ、出遅れだ!!』───
スタート直後の悲鳴。逃げ宣言をしていたカイウンスカイは、他馬より一拍遅れてのスタートとなった。
その後ろでより大きく出遅れたのは、八番エリノソルジャー。
───『スタンドがどよめいています。スタート直後から波乱の展開となりました。さあ、誰が逃げるのか』───
カイウンスカイは逃げられず。積極的に逃げたい馬もおらず、先行勢はチラチラと横を確認しながら、お互いを牽制する。
そのまま一コーナーへ。最内を走るクラウンヘイローが押し出されるように、そのまま先頭へ立つ。いや、立ってしまった。
東京競馬場が、再びどよめいた。
◇
赤い帽子のスペシャルデイズは悪くないスタートを切った。ダービーポジションを意識すれば、このまま好位につけるのも手だ。
だが、椿はすぐに手綱を引き、中段へとポジションを下げていった。
皐月賞では位置取りに泣いた。その記憶に新しい苦みは、この大舞台で嫌がおうにも思い出させる。
しかし、椿はスペシャルデイズの良さを出すため、迷うことなく手綱を引いた。
皐月賞の雪辱を果たすための選択ではない。スペシャルデイズが一番強いレースをするための選択だった。
負けたくない。勝ちたい。──勝たなければならない。
一番人気の重圧と、勝利への渇望を絡め取りながら、椿とスペシャルデイズは、静かに息を潜めていく。
包まれるかもしれない。
進路を失うかもしれない。
それでも、この馬の末脚を、信じ切るために。
ダービーは、もう動き出していた。
お読みいただきありがとうございました!
次回は6月末ころの更新が目標です。
ダービー編はあと3話くらいでまとめる予定です。
それではまた次の更新で。
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