社会は誰の味方なのか
前話では、敵味方と善悪は別の基準であると考えた。
敵だから悪とは限らない。
味方だから善とも限らない。
自分にとって都合がよいことと、善であることも同じではない。
そして、この基準は自分自身にも適用しなければならない。
自分が味方を守っているからといって、自分の行為が無条件に善になるわけではない。
では、この考え方を個人よりも大きなものへ適用するとどうなるだろうか。
今回考えたいのは、
社会は誰の味方なのか。
という問題である。
社会という言葉を使うと、それだけで何となく公共性や正当性を感じることがある。
社会のため。
秩序のため。
法律を守るため。
多くの人々が暮らすため。
こうした言葉には、個人の利益よりも大きな何かを守っているような印象がある。
しかし、ここまで考えてきた敵味方と善悪の基準を使うなら、
社会だから善である
という前提を置くことはできない。
社会も評価される側だからである。
社会が何を目的として作られたのか。
どのような理念を掲げているのか。
どのような言葉で自らを説明しているのか。
それらも無意味ではない。
しかし、敵味方を判断するうえで、より重要なのは、
実際に何を守り、何を妨げているのか
である。
たとえば、ある社会の中に他者へ不必要な害を与え続ける者がいるとする。
その害を止めようとする者もいる。
ところが社会の制度が、害を与える者を保護し、害を止めようとする者の行動だけを制限していたらどうだろうか。
制度を作った者には善意があったかもしれない。
公平性を守ろうとしたのかもしれない。
過剰な制裁を防ごうとしたのかもしれない。
しかし、その結果として、
害を与える者が残る。
被害が継続する。
害を止める行為が妨げられる。
という状態が生まれているのであれば、実際の働きを無視することはできない。
ここで重要なのは、
意図と結果を分けること
である。
善を守るために作られた制度が、必ず善を守るとは限らない。
悪を防ぐために作られた制度が、必ず悪を減らすとも限らない。
制度を作ったときには合理的だったものが、環境の変化によって逆効果になることもある。
悪用されることもある。
運用する者が腐敗することもある。
例外を想定できていないこともある。
そして、問題が明らかになった後も修正されないこともある。
だから、
目的が善であることと、構造が善として機能していることは同じではない。
これは個人について考えたときと同じである。
本人に悪意がなくても、こちらへ害を与える存在は敵になり得た。
事情を理解できても、危険への対処を放棄する理由にはならなかった。
社会についても同じ基準を使えばよい。
社会に善意がある。
社会には事情がある。
制度を維持する必要がある。
それらを理解することはできる。
しかし、その社会が実際に自分や味方を害し、その害を継続させるのであれば、
自分たちにとって敵として機能している
と判断することはできる。
ここで社会を特別扱いする必要はない。
さらに善悪の観点を加えると、より重要な問題が見えてくる。
悪による害が存在する。
その害を社会が保存する。
善がその害を止めようとする。
しかし、社会がそれを妨げる。
この構造が成立しているのであれば、
悪を保存する社会は、善にとって敵になり得る。
反対に考えれば分かりやすい。
悪を行う側から見れば、自分を守ってくれる制度はどう見えるだろうか。
自分が害を与えても守ってくれる。
排除されそうになれば防いでくれる。
自分への対処を制限してくれる。
自分が行動を続けられる環境を維持してくれる。
そのような社会は、
悪にとって味方として機能することがある。
ここで、
「社会が悪の味方をするはずがない」
と考えてしまえば、社会を最初から善の側へ置いていることになる。
しかし、それではこれまで使ってきた基準と矛盾する。
味方とは、善であることによって決まるものではなかった。
自分との関係によって決まる。
それなら社会についても同じである。
社会が誰を守っているのか。
誰の行動を助けているのか。
誰の行動を妨げているのか。
その結果として、誰が利益を得て、誰が害を受けているのか。
そこを見なければならない。
これは、
社会全体が一つの意思を持っている
という意味ではない。
社会は非常に複雑である。
法律。
行政。
司法。
企業。
学校。
地域社会。
慣習。
世論。
様々な人間や制度が重なっている。
だから、一つの社会が完全に誰かの味方であり、完全に誰かの敵であるとは限らない。
ある制度は自分を守っている。
別の制度は自分を害している。
ある部分では善を助けている。
別の部分では悪を保存している。
そのような状態も当然あり得る。
だから、
社会という巨大な主語だけで一括りにすることにも注意が必要である。
社会のどの構造が問題なのか。
何が害を保存しているのか。
誰の行動がそれを支えているのか。
修正できるのか。
別の仕組みに置き換えられるのか。
そこまで分解して考える必要がある。
しかし、分解して考えることと、
「社会だから敵とは呼べない」
ということは別である。
複数の構造が組み合わさった結果として、自分や味方への害を継続的に生み出しているのであれば、全体として敵対的に機能していると判断することもできる。
そして、ここで非常に重要なことがある。
社会が敵だから、社会を害してよいわけではない。
これは、これまで敵について考えてきた原則をそのまま適用すれば分かる。
競争相手が敵だからといって、害してよいわけではなかった。
潜在的な敵だからといって、無制限に先制攻撃してよいわけでもなかった。
実際に害を与えている敵についても、必要な対処と不必要な加害を分けて考えた。
ならば、社会についても同じである。
社会が自分にとって敵である。
だから何をしてもよい。
とはならない。
どのような害が存在するのか。
何を止める必要があるのか。
どの構造を変える必要があるのか。
どの程度の対応が必要なのか。
その対応によって別の無関係な者へどれほどの害が発生するのか。
それらを考えなければならない。
むしろ、社会は多くの人間を含んでいるからこそ、この判断は個人を相手にするとき以上に慎重になる。
自分にとって敵として機能している制度の中にも、自分を害していない人間は存在する。
制度によって守られている者の中にも、悪を行っていない者は存在する。
社会という大きな対象を敵と判断したことを理由として、その内部にいるすべての者まで敵と扱えば、再び敵という概念を乱用することになる。
だから、
敵を正確に特定すること
が必要になる。
社会そのものなのか。
特定の制度なのか。
制度の運用なのか。
その制度を悪用している者なのか。
制度の欠陥を知りながら維持している者なのか。
それとも、複数の要素が組み合わさった構造なのか。
敵という言葉を使うのであれば、何を敵と呼んでいるのかを曖昧にしてはいけない。
そして、社会を評価するときにも、敵味方と善悪は分ける必要がある。
自分に不利益を与える制度だから悪。
とは限らない。
自分に利益を与える制度だから善。
とも限らない。
自分には不利益でも、それが自分による不必要な害を防いでいるのであれば、自分にとって敵として感じられても、その機能まで悪とは言えない場合がある。
反対に、自分へ大きな利益を与えてくれる制度であっても、その利益が他者への不必要な害によって成立しているなら、自分にとって味方であることと善であることは別に考えなければならない。
ここでも原則は変わらない。
味方だから善ではない。
敵だから悪ではない。
社会についても、この二つを混同してはいけない。
だからこそ、
社会そのものにも特権を与えない。
社会が善を守っているなら、その部分では善にとって味方として機能している。
社会が悪を抑えているなら、その部分では悪にとって敵として機能している。
社会が悪を保存しているなら、その部分では悪にとって味方となり、善にとって敵となり得る。
そして社会が変化すれば、その関係も変化する。
これは社会に限った話ではない。
個人も変わる。
集団も変わる。
制度も変わる。
状況も変わる。
昨日まで自分を守っていたものが、今日も自分を守るとは限らない。
昨日まで自分を害していたものが、明日も敵であり続けるとも限らない。
敵と味方を固定された属性だと思えば、一度下した判断に縛られる。
しかし、敵味方が関係によって成立するのであれば、その関係が変化したときには判断も更新しなければならない。




