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敵と味方  作者: 天秤座
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6/9

善悪と敵味方


 ここまで、敵と味方について考えてきた。


 自分や守りたい存在に害を与える者。


 目的の達成を妨げる者。


 将来的に害を与える可能性が高い者。


 そうした存在は、自分にとって敵になり得る。


 一方で、自分が守りたいと思う存在は、必ずしも自分へ利益を与えてくれなくても味方になり得る。


 そして、敵への対応についても考えた。


 敵だから害してよいわけではない。


 しかし、自分や味方を守るために必要なら、敵へ害を与えなければならない場合もある。


 ここまでの話で何度も出てきたのが、


 敵味方と善悪は同じではない


 という考え方である。


 今回は、この二つの関係をもう少し詳しく考えてみたい。


 まず、最も単純なところから始めよう。


 敵は悪とは限らない。


 これは競争相手を考えれば分かりやすい。


 二人の選手が同じ大会で優勝を目指している。


 一方が勝てば、もう一方は負ける。


 互いに相手の目的達成を妨げる存在である以上、勝負においては敵である。


 しかし、両者が正々堂々と競っているなら、どちらかを悪とする理由はない。


 自分の目的を妨げる。


 だから敵。


 しかし、


 自分の目的を妨げる。


 だから悪。


 とはならない。


 ここには明確な違いがある。


 敵味方は、


 自分や守りたい存在との関係


 によって決まる。


 一方で善悪は、


 自分にとって都合がよいか悪いかだけでは決まらない。


 この区別を失えば、自分の都合そのものを善悪へ置き換えることになる。


 自分に利益を与える者は善。


 自分に不利益を与える者は悪。


 自分に賛成する者は善。


 自分に反対する者は悪。


 自分の味方は善。


 自分の敵は悪。


 この考え方は非常に分かりやすい。


 しかし、善悪について考えているようで、実際には、


 自分にとって都合がよいか


 しか判断していない。


 敵味方の判断としてなら、それでも成立する場合がある。


 自分の目的を妨げる相手を敵と認識すること自体には矛盾がない。


 しかし、それをそのまま悪という評価へ変換すれば話は別である。


 逆も同じだ。


 味方だから善とは限らない。


 自分を助けてくれる人間がいる。


 自分へ利益を与えてくれる。


 困ったときには守ってくれる。


 自分にとっては非常に頼りになる味方である。


 しかし、その人間が別の誰かを不必要に害していたらどうだろうか。


 自分に優しい。


 だから善人。


 自分を助けてくれる。


 だから何をしていても許される。


 とはならない。


 自分との関係では味方である。


 しかし、その人物の行為については別に善悪を判断する必要がある。


 ここで重要なのが、


 同じ基準を敵と味方の両方へ適用すること


 である。


 敵が人を傷つけた。


 悪だと判断する。


 味方が同じ理由で同じ程度に人を傷つけた。


 しかし味方だから許す。


 これでは善悪の基準が変わっている。


 評価しているのは行為ではなく、


 誰が行ったか


 になってしまう。


 敵の害だけを厳しく評価し、味方の害を軽く扱う。


 敵の事情は言い訳として退け、味方の事情だけは考慮する。


 敵の失敗は本人の責任とし、味方の失敗は環境の責任とする。


 これでは同じ善悪の基準を適用しているとは言えない。


 もちろん、事情によって評価が変わること自体はおかしくない。


 故意なのか。


 事故なのか。


 知っていたのか。


 知らなかったのか。


 予測できたのか。


 回避できたのか。


 選択肢があったのか。


 どれほどの害が発生したのか。


 こうした条件が違えば、同じ結果でも評価が変わることはある。


 しかし、それは、


 敵だから厳しく、味方だから甘くする


 という意味ではない。


 同じ条件なら、同じ基準で判断する。


 敵であっても考慮すべき事情は考慮する。


 味方であっても責任があるなら責任を認める。


 この原則を崩さなければ、敵味方という個人的な関係と善悪を分離しやすくなる。


 そして、この区別は自分自身にも適用しなければならない。


 ここが最も難しい。


 自分は当然、自分から世界を見る。


 自分が傷つけば苦しい。


 味方が傷つけば腹が立つ。


 敵に負ければ悔しい。


 だから、自分や味方の行動には理由を見つけやすく、敵の行動には悪意を見つけやすい。


 しかし、


 自分が自分の味方であることと、自分が善であることは別である。


 自分を守ること自体は当然考えてよい。


 味方を守ろうとすることもできる。


 敵に対処することもできる。


 だが、その過程で不必要な害を与えれば、その行為については自分自身も善悪の評価対象になる。


 たとえば、誰かが自分を殴ってきた。


 こちらは身を守るために反撃した。


 相手は倒れ、もう攻撃できない。


 そこで止めれば、安全を確保するための対応として説明できるかもしれない。


 しかし、


「こいつは敵だから」


 という理由で、その後も必要なく攻撃を続けたならどうだろうか。


 相手が先に悪かった。


 相手が敵だった。


 それは事実かもしれない。


 だが、その事実は自分が後から発生させた不必要な害を消してくれない。


 敵が悪であることと、自分が善であることは別問題なのである。


 反対に、敵を害したから悪とも限らない。


 自分や味方を守るために必要な対応を行った。


 その結果として敵が不利益を受けた。


 これを、


「相手を害したのだから悪だ」


 とだけ評価するのも単純すぎる。


 なぜ害が発生したのか。


 その害を回避できたのか。


 もっと小さな害で安全を確保できたのか。


 放置した場合には誰がどれほど害されたのか。


 そうした条件を考えなければならない。


 だから、


 害したか、害していないか


 だけでも善悪は決まらない。


 重要なのは、その害がなぜ発生し、必要だったのか、不必要だったのかという構造である。


 ここで、敵味方と善悪を二つの軸として考えると分かりやすい。


 善であり、味方でもある者。


 善でありながら、敵である者。


 悪でありながら、味方である者。


 悪であり、敵でもある者。


 どの組み合わせも成立し得る。


 正々堂々と競う好敵手なら、自分にとって敵であっても、そのことを理由に悪とは言えない。


 自分を助けてくれる犯罪者がいたなら、自分との関係では味方になったとしても、その犯罪まで善になるわけではない。


 自分や味方を不必要に害する者であれば、敵であると同時に、その行為について悪と判断されることもある。


 そして、自分が誰かに不必要な害を与えれば、自分自身も誰かにとって敵となり、同時にその行為について悪と判断され得る。


 ここには、もう一つ重要なことがある。


 善悪について対立しているからといって、必ず敵になるとも限らない。


 二人の人間が、ある問題について異なる善悪判断を持っている。


 しかし、互いに相手を害していない。


 互いの生活も妨げていない。


 守りたい存在にも害を与えていない。


 目的の達成にも実質的な不利益を生じさせていない。


 この場合、意見は対立していても、敵と断定する必要はない。


 もちろん、現実には価値観の対立が行動へつながり、何らかの不利益や害を生じさせることも多い。


 だから善悪の対立が敵対関係へ発展することは珍しくない。


 しかし、


 意見が違うことと、敵であることも同じではない。


 害があるのか。


 不利益があるのか。


 守りたいものを脅かしているのか。


 まだ分からないなら、判断を保留することもできる。


 何でもすぐに敵味方へ分ける必要はないのである。


 こうして考えると、敵味方と善悪は似ているようで、役割が違う。


 敵味方は、


 自分が何を守り、何と対立しているのかを認識するための基準。


 善悪は、


 その関係の中で行われていることを、自分の都合だけではなく評価するための基準。


 だから、両方が必要になる。


 敵味方だけで世界を見れば、


「味方のためなら何をしてもよい」


 という結論へ進みやすい。


 善悪だけを見て敵味方を無視すれば、


「相手にも事情がある」


「相手にも守りたいものがある」


 という理解によって、現実に存在する危険への対応まで曖昧になることがある。


 理解と対処は別である。


 相手の事情を理解しても、敵なら警戒する必要がある。


 相手が悪でなくても、自分や味方を害するなら止める必要がある。


 反対に、相手が敵でも、害する必要がないなら不必要に害してはいけない。


 そして味方であっても、その行為が悪なら悪として評価する。


 敵味方と善悪。


 この二つを混ぜないからこそ、


 守ることと、正当化することを分けられる。


 私は味方を守る。


 しかし、味方の悪まで善とは呼ばない。


 私は敵に対処する。


 しかし、敵だから悪だとは決めつけない。


 私は自分自身を守る。


 しかし、自分の行為だけを善悪の評価から外さない。


 この原則は、個人同士の関係だけに適用されるものではない。


 人間が集まれば、集団が生まれる。


 制度が生まれる。


 そして社会が生まれる。


 そこで一つの疑問が生じる。


 社会は、誰の味方なのだろうか。


 社会が善を名乗っているから、善の味方なのか。


 法律が存在するから、善を守っているのか。


 秩序を維持しているから、それ自体が善なのか。


 ここまでの考え方をそのまま適用するなら、社会だけを特別扱いする理由はない。


 社会もまた、


 実際に何を守り、何を害し、何を存続させているのか


 によって評価されなければならない。


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