敵に対する必要な害
前話では、
敵だから害してよいわけではない。
しかし同時に、
敵だから絶対に害してはいけないわけでもない。
というところまで考えた。
この二つは、一見すると矛盾しているように見えるかもしれない。
だが、問題となっている基準が違う。
前者は、敵であることだけでは加害の理由として不十分だという話である。
後者は、自分や味方を守るために、敵へ害を与えなければならない場合があるという話である。
では、どのような害なら必要なのか。
今回は、その境界について考えてみたい。
まず、最も単純な状況から考えよう。
誰かが自分を殴ろうとしている。
こちらには逃げる時間があり、安全な場所へ移動すれば、それ以上追ってこないことも分かっている。
この場合、自分の安全という目的だけを考えるなら、逃げることで問題を解決できる。
相手を殴り倒す必要はない。
ましてや、倒れた相手をさらに攻撃する必要もない。
一方で、逃げられない場合はどうだろうか。
相手の攻撃を防ぐ。
腕を掴む。
押し返す。
必要なら反撃する。
相手を傷つける可能性があったとしても、自分の安全を確保するために必要なら、先ほどとは条件が違ってくる。
ここから分かるのは、
必要な害は、害の大きさだけでは決まらない
ということである。
同じ行為でも状況によって意味が変わる。
人を押すという行為を考えてみよう。
何もしていない人間を突然押し倒せば、単なる加害になり得る。
しかし、自分へ刃物を向けている人間を押し返して距離を取るのであれば、自分を守るための行為になる。
行為だけを切り取って善悪を判断することはできない。
なぜその行為が必要だったのか。
他に選択肢はあったのか。
どの程度の危険が存在していたのか。
どこまで行えば危険を止められたのか。
そうした条件まで考える必要がある。
ここで基準となるのが、
安全の確保
である。
自分や味方が害されている。
あるいは、害される危険が十分に存在する。
その状態を解消するために必要な行為を行う。
このとき、相手に不利益や苦痛が発生することはあり得る。
しかし、その害は目的そのものではない。
目的は、自分や味方を守ることである。
この違いは重要だ。
たとえば、自分を襲ってきた動物を柵の外へ追い出したとする。
動物にとっては不利益だろう。
餌を求めていたのであれば、餌を得られなくなる。
罠を使って捕獲すれば、さらに大きな負担を与えることになる。
それでも、自分や守っている動物、植物などへの被害を防ぐために必要なのであれば、何らかの対応をしなければならない。
相手に悪意がないことは、こちらが害を受け続けなければならない理由にはならない。
ここでも、
理解することと、受け入れることは別である。
なぜ相手がこちらを害しているのか理解できる。
相手にも事情があると分かる。
相手が悪意によって行動しているわけではないことも分かる。
それでも、自分や味方が害されるのであれば、その害を止める必要はある。
原因を理解することは、対処を放棄することではない。
人間同士でも同じである。
相手が追い詰められていた。
感情的になっていた。
何かを勘違いしていた。
そうした事情が存在するかもしれない。
事情を知れば、相手の行動を理解できる場合もある。
しかし、
「事情があったから害を受け続けなければならない」
とはならない。
事情は事情として理解する。
危険は危険として止める。
その二つを分離して考える必要がある。
では、必要な害と不必要な害は、どこで分かれるのだろうか。
一つの基準になるのは、
目的を達成した後も害を続けているか
である。
自分を殴ろうとした相手を押さえ込んだ。
もう相手は攻撃できない。
自分も安全である。
それでも殴り続ける。
ここまで来れば、行為の目的は安全の確保から離れ始める。
怒り。
報復。
憎しみ。
苦しませたいという欲求。
別の目的が入り込んでくる。
もちろん、現実の危険はこれほど単純ではない。
一度動きを止めただけでは、すぐに再び襲ってくるかもしれない。
今は攻撃していなくても、解放した瞬間に攻撃を再開するかもしれない。
だから、
「現在攻撃していない=危険が消滅した」
とも限らない。
必要性を判断するには、現在だけではなく、その後に予測される危険も含めなければならない。
ここで前話までに考えた、潜在的な敵という概念が関係してくる。
現在の攻撃を止めても、高い確率で再び攻撃してくる。
何度離しても戻ってくる。
他の味方を狙う可能性が高い。
そうであれば、単にその場の攻撃を止めるだけでは安全を確保したとは言えない。
隔離する。
侵入できないようにする。
監視する。
能力を制限する。
距離を取る。
場合によっては、より強い排除が必要になることもある。
つまり、
必要性は、その瞬間の被害だけでなく、合理的に予測できる将来の被害まで含めて判断する必要がある。
しかし、この考え方にも危険がある。
「将来危険になるかもしれない」
という理由だけで何でもできるとすれば、潜在的な敵という概念が無制限の加害を正当化する道具になってしまう。
だからこそ、可能性の強さを見る必要がある。
どれほどの確率なのか。
根拠はあるのか。
予想される害はどれほど大きいのか。
その害は回避できるのか。
もっと小さな対応で防げるのか。
危険が小さいなら、小さな対応で足りるかもしれない。
危険が大きくても、距離を取るだけで防げるなら、それで足りるかもしれない。
反対に、危険が極めて大きく、他の方法では防げないのであれば、より強い対応が必要になる。
ここで重要なのは、
最も弱い手段を必ず選ばなければならない
ということでもない。
弱すぎる対処によって危険を止められなければ、そもそも対処の目的を果たしていないからである。
必要なのは、
危険を十分に止められる範囲で、不必要な害を増やさないこと
である。
相手を説得すれば確実に止まるなら、説得でよい。
距離を取れば安全になるなら、距離を取ればよい。
隔離しなければ危険が続くなら、隔離する必要がある。
それでも止められないなら、さらに強い手段を検討することになる。
重要なのは、手段の弱さそのものではない。
目的に対して適切かどうかである。
そして、この判断にはもう一つ必要なものがある。
自分自身も評価対象に含めること。
敵の危険性だけを分析して、自分の行動だけを無条件に正当化してはいけない。
相手が敵だった。
相手が先に害を与えた。
相手に悪意があった。
それらが事実だったとしても、その後に自分が行うすべての行為が正当になるわけではない。
敵が悪であっても、自分まで善になるとは限らない。
悪を害したから善になるわけでもない。
相手の行為は相手の行為として評価する。
自分の行為は自分の行為として評価する。
相手が何をしたかは、自分の対応に必要性を与える重要な条件にはなる。
しかし、
相手が悪だから、自分は何をしても善である
という結論にはならない。
これは味方についても同じである。
味方を守ることが目的だからといって、何をしても許されるわけではない。
自分にとって大切な人間を守るために、無関係な人間を必要なく害したなら、その害は別に評価しなければならない。
守るという目的が存在することと、そのために選んだ手段が正しいことは別問題だからである。
ここまでを整理すると、敵への対応には少なくとも三つの段階がある。
まず、
敵がどのような害をもたらしているのかを判断する。
次に、
その害から自分や味方を守るために何が必要なのかを判断する。
最後に、
自分の対応が、その必要性を越えて新しい害を生み出していないかを判断する。
この三つを分ければ、
「敵だから攻撃する」
という単純な発想から離れることができる。
同時に、
「相手を害するのは悪だから何もしない」
という単純な発想からも離れることができる。
敵がいることそのものは悪ではない。
敵と戦うことそのものも悪ではない。
敵を害さないことそのものが善でもない。
問うべきなのは、
誰を守るのか。
何から守るのか。
どこまで対処する必要があるのか。
そして、その必要性を越えて害していないか。
ということである。
ここまで来ると、敵味方と善悪の関係もかなり明確になってくる。
敵は悪とは限らない。
味方は善とも限らない。
そして、自分が味方を守って敵と戦っているからといって、自分自身が必ず善になるわけでもない。
では、敵味方と善悪は具体的にどのような関係にあるのか。
次は、善悪と敵味方という二つの異なる基準を重ねて考えていこう。




