敵だから害してよいわけではない
前話では、敵にも種類があると考えた。
すでに害を与えている敵。
将来的に害を与える可能性がある敵。
自分にとって不都合ではあるが、直接的な害を与えているわけではない敵。
そして、情報が足りず、敵かどうか判断を保留すべき相手。
ここまで敵という言葉を広く使うと、一つのことが明確になる。
敵であることは、相手を害してよい理由にはならない。
これは敵と悪を分けて考えるうえで、非常に重要な部分である。
敵という言葉には、どうしても否定的な印象がある。
敵なら倒す。
敵なら排除する。
敵なら自分たちとは相容れない。
物語であれば、それでも分かりやすい。
主人公たちの前に敵が現れ、それを倒すことで物語が進んでいく。
しかし、現実に存在する敵は、それほど単純ではない。
たとえば、自分が大会で優勝したいとする。
当然、他の参加者も優勝を目指している。
全員が同じ目的を持っている以上、誰かが勝てば誰かが負ける。
自分の目的だけを基準に考えるなら、他の参加者は不都合な存在である。
つまり、敵になり得る。
だからといって、相手を怪我させて参加できなくすればよいのだろうか。
もちろん違う。
相手がルールを守って競争しているのであれば、自分も同じ条件で競えばいい。
相手より努力する。
技術を磨く。
戦略を考える。
そして、正面から勝つ。
そこに敵がいること自体は問題ではない。
むしろ、敵がいるからこそ競争が成立する。
このような相手は、単なる敵というより、
好敵手
と呼ぶ方がふさわしいだろう。
好敵手は味方ではない。
少なくとも勝負の最中では、自分の勝利を妨げる存在である。
しかし、だからといって害する必要もない。
互いに勝とうとしながら、互いに不必要な害を与えず、定められた条件の中で競争することができる。
これはスポーツだけの話ではない。
商売にも競争相手がいる。
創作にも競争相手がいる。
選挙にも対立候補がいる。
限られた地位を目指すのであれば、同じ地位を求める者とは目的が衝突する。
自分にとって不都合であるという意味では、敵と呼ぶことができる。
しかし、
「自分にとって不都合だから、相手を害する」
というところまで進めば、話は変わる。
競合する店の商品が自分の商品より売れている。
だから虚偽の悪評を広める。
自分より評価されている人間がいる。
だから根拠のない中傷をする。
大会で勝てそうにない相手がいる。
だから競技とは関係のないところで負傷させる。
このとき、自分は何をしているのだろうか。
相手が敵だから戦っている。
そう説明することはできるかもしれない。
しかし、相手は正当な方法で自分と競争していただけである。
そこへ自分から別の害を持ち込んでいる。
つまり、
敵に対抗しているのではなく、自分自身が新しい害を発生させている。
ここで善悪の問題が生じる。
敵であるという事実は変わらない。
相手が自分の目的にとって不都合な存在であることも変わらない。
それでも、自分が行った害まで正当になるわけではない。
私は、この区別が非常に大切だと考える。
敵を敵として認識することと、敵を害することは別である。
嫌いな相手を嫌いだと思うことと、その相手を傷つけることも別である。
競争相手に負けたくないと思うことと、その相手が競争できないように妨害することも別である。
人間の内面で発生する敵味方の判断そのものをなくす必要はない。
問題になるのは、その判断を理由として何をするかである。
ここで一つ、考え方を逆転させてみたい。
敵だからこそ、正面から戦えばよい。
相手が自分より強い。
相手の商品が自分の商品より優れている。
相手の作品が自分の作品より評価されている。
それなら、自分も強くなればいい。
商品を改善すればいい。
よりよい作品を作ればいい。
もちろん、現実には努力したから必ず勝てるわけではない。
才能も違う。
環境も違う。
持っている資源も違う。
運も関係する。
それでも、
相手が自分より優れていることは、相手を害する理由にはならない。
負けることが不都合だからといって、勝者を悪にすることもできない。
この意味で、好敵手という関係は重要である。
敵を善悪から切り離して考えるからこそ、
「害する必要のない敵」
という存在を認めることができる。
敵なのだから排除する。
ではない。
敵なのだから競う。
敵なのだから警戒する。
敵なのだから距離を取る。
敵なのだから備える。
敵なのだから戦う。
何が必要なのかは、相手との関係によって変わる。
そして、必要のない害を選択しない。
ここまでなら話は比較的単純である。
しかし、現実にはもっと難しい敵も存在する。
こちらが害さなければ、こちらが害される場合である。
自分を攻撃してくる人間。
味方を傷つける人間。
守っている動物を襲う動物。
大切に育てている植物を食い尽くす生物。
このような相手に対して、
「敵だから害してはいけない」
とだけ言っても問題は解決しない。
相手を害さないことによって、自分や味方が害され続けるのであれば、その選択そのものが守りたい存在の安全を損なうからである。
ここで必要になるのが、
害を与えることそのものと、不必要な害を与えることの区別
である。
たとえば、自分が殴られそうになったため、相手の腕を掴んで止めたとする。
相手の自由を一時的に奪っているという意味では、こちらも相手へ不利益を与えている。
しかし、それを一切認めないのであれば、自分は相手からの攻撃を受け入れるしかなくなる。
自分を守ることと、相手を一切害さないことが両立しない状況は存在する。
そのとき重要になるのは、
何のために、どこまで行う必要があるのか。
という判断である。
安全を確保するために必要だから止める。
危険から離れるために押し返す。
味方への攻撃を防ぐために割って入る。
このような行為と、
腹が立ったから苦しませる。
敵だから必要以上に傷つける。
もう危険ではないのに攻撃を続ける。
という行為は、同じ「敵への加害」で一括りにはできない。
だから、
敵を害してはいけない
という考え方だけでも不十分である。
敵だから害してよいわけではない。
しかし、
敵だから絶対に害してはいけないわけでもない。
自分や味方を守るためには、相手へ何らかの害を与えなければならないこともある。
ここで再び重要になるのが、敵味方と善悪を分けることである。
敵かどうかを判断する。
その敵がどの程度の害をもたらすかを判断する。
自分や味方の安全を確保するために、何が必要なのかを判断する。
そして、その必要性を越えていないかを考える。
この順番を飛ばして、
「敵だから」
という一言だけで行動を決めてしまえば、必要のない害まで正当化することになる。
反対に、
「相手を害するのは悪だから」
という一言だけで必要な対応まで放棄すれば、自分や味方を危険へさらすことになる。
敵との関係で問われるべきなのは、敵が存在することではない。
その敵に対して、
何をする必要があるのか。
そして、
どこからが必要ではなくなるのか。
ということである。
害する必要のない敵とは、正面から競えばいい。
警戒するだけでよい敵なら、警戒すればいい。
距離を取れば安全なら、距離を取ればいい。
そして、実際に安全を損なう敵に対しては、安全を取り戻すための対応が必要になる。
では、その「必要な対応」はどこまで許されるのか。
次は、敵に対する必要な害と、安全の確保について考えていこう。




