敵にも種類がある
前話では、守りたいものがあるからこそ敵が生まれると考えた。
自分自身。
家族や友人。
動物や植物。
あるいは、自分が達成したい目的や守りたい利益。
それらに対して害や不都合をもたらす存在は、自分にとって敵になり得る。
しかし、ここで新しい問題が生じる。
敵だと判断した存在を、すべて同じように扱ってよいのだろうか。
当然、そうではない。
自分を殺そうとしている人間と、同じ大会で優勝を争っている選手では、同じ「敵」という言葉を使えても、その性質はまるで違う。
大切な植物を枯らす病害虫と、自分より大きく育って日光を遮っている別の植物も同じではない。
どちらも自分の目的にとって不都合ではある。
しかし、不都合の程度も、発生する害も、必要となる対応も違う。
だから、
敵であるかどうかだけでは、何をすべきかまでは決まらない。
敵について考えるなら、その敵がどのような存在なのかまで考える必要がある。
最も分かりやすいのは、すでに害を与えている敵だろう。
自分を攻撃している。
味方を傷つけている。
守っているものを破壊している。
このような存在については、敵であることを判断する材料がすでに存在している。
もちろん、害が発生しているからといって、即座に相手のすべてを悪と判断するわけではない。
事故かもしれない。
勘違いかもしれない。
本人に制御できない事情があるかもしれない。
しかし、それらは善悪を判断するときには重要でも、安全を確保するときには別の問題である。
悪意のない動物に襲われている最中に、
「この動物に悪意はあるのだろうか」
と考えてから身を守る必要はない。
まず危険を認識する。
そして安全を確保する。
その後で、必要なら原因を考えればいい。
では、まだ何もしていない相手は敵ではないのだろうか。
これも、そうとは限らない。
実際に害を受けるまで敵を認識できないのであれば、危険を予測するという行為そのものができなくなる。
こちらを攻撃するために武器を用意している人間がいる。
大切な作物を食べる生物が近づいている。
他の植物を枯らす性質を持つ植物が、自分の守っている場所へ広がり始めている。
まだ被害が発生していなくても、その性質や状況について十分な情報があれば、将来的な敵対を予測することはできる。
つまり、
敵には、現在の敵だけでなく、潜在的な敵も存在する。
ただし、ここには注意が必要である。
可能性がある。
その一言だけで敵と断定してしまえば、ほとんど何でも敵にできてしまうからだ。
人間は誰でも他人を傷つける能力を持っている。
犬も人間を噛むことができる。
植物も種類によっては周囲の植物と競合する。
しかし、
「害する能力がある」
というだけで、すべてを同じ危険度の敵として扱うのは合理的ではない。
だから、潜在的な敵については調べる必要がある。
その存在は何をするのか。
こちらと利害が衝突するのか。
敵対する可能性はあるのか。
その可能性は高いのか、低いのか。
敵対した場合、どれほどの害が発生するのか。
こちらが何もしなければどうなるのか。
状況によって判断材料は異なるが、重要なのは、
可能性の有無だけでなく、その強弱を見ることである。
そして、分からないのであれば、分からないまま扱うという選択もある。
敵かもしれない。
味方かもしれない。
どちらでもないかもしれない。
情報が不足しているのであれば、無理に結論を出す必要はない。
私は、このような存在を保留すべき相手として扱えばよいと考える。
警戒する必要があるなら警戒する。
調べられるなら調べる。
距離を取る必要があるなら距離を取る。
しかし、敵だと確定していない以上、確定した敵と同じ扱いをする必要もない。
敵味方の判断とは、必ず白か黒かを決める作業ではない。
分からないという状態も、一つの判断結果なのである。
そして、もう一種類考えなければならない敵がいる。
危険ではないが、不都合な敵である。
たとえば、スポーツの対戦相手。
大会で優勝できるのは一人だけだとする。
自分が優勝したいのであれば、自分以外の参加者はその目的を妨げる存在になる。
相手も同じである。
自分が勝てば、相手は負ける。
相手が勝てば、自分は負ける。
目的が両立しない以上、競争という意味では敵同士である。
商売でも同じことは起こる。
同じ顧客を獲得しようとしている二つの店がある。
一方の店を選んだ客は、同時にもう一方の店では買わないかもしれない。
互いの存在が利益へ影響する以上、商売敵という言葉が成立する。
しかし、ここには直接的な害が存在しない場合も多い。
相手が優秀だから自分が負ける。
相手の商品が魅力的だから自分の商品が売れない。
相手の作品が面白いから、自分より多くの読者を獲得している。
これらは自分にとって不都合ではある。
しかし、
不都合であることと、不当に害されていることは同じではない。
相手は自分を攻撃しているわけではない。
自分を陥れているわけでもない。
自分と同じ目的を持ち、その目的へ向かって行動しているだけである。
それでも、自分の目的との関係だけを見れば敵とは言える。
ここが、敵と悪を分離して考えるうえで重要になる。
敵という概念を、
「悪い存在」
に限定してしまうから、
「敵なら排除してよい」
という考え方へ結びつきやすくなる。
しかし、敵の中に正当な競争相手まで含めれば、その考え方がおかしいことはすぐに分かる。
自分より速い選手が邪魔だから怪我をさせる。
競合店が邪魔だから虚偽の噂を流す。
人気のある作品が邪魔だから作者を中傷する。
敵だからという理由だけでこれらを行えば、問題を起こしているのは相手ではなく自分になる。
つまり、
敵の種類を見誤れば、自分自身が害を与える側へ転じる。
だからこそ、敵を認識した後には、もう一段階の判断が必要になる。
この敵は、どのような敵なのか。
実際に害を与えているのか。
将来的な危険があるのか。
単純に利益が衝突しているだけなのか。
どれほど警戒する必要があるのか。
今すぐ対処する必要があるのか。
それとも、正面から競えばよい相手なのか。
敵という言葉は、対応方法まで決めてくれる言葉ではない。
むしろ、
敵だと認識してから、どう扱うべきかを考える必要がある。
現在の敵。
潜在的な敵。
不都合ではあるが、積極的に害する必要のない敵。
そして、情報不足によって判断を保留すべき相手。
これらを区別せず、すべてを「敵」という一言で処理してしまえば、必要な警戒を怠ることもあれば、反対に必要のない加害を行うこともある。
敵を見つけることは、判断の終わりではない。
そこから、
その敵に対して、自分は何をしてよいのか。
という新しい問題が始まる。
そして、その答えを間違えれば、相手が敵であるという事実とは関係なく、自分自身が悪へ転じることになる。




