守りたいものがあるから敵が生まれる
前話では、敵と味方を善悪から切り離して考えた。
敵だから悪とは限らない。
味方だから善とも限らない。
では、そもそも敵と味方はどこから生まれるのだろうか。
その出発点として考えたいのが、
「自分は何を守りたいのか」
という問題である。
自分自身。
家族。
友人。
大切にしている動物。
育てている植物。
あるいは、自分が価値を認めた何か。
人間は様々なものを守ろうとする。
そして、何かを守ろうとした瞬間、その対象を害する存在との間に対立が生じる可能性がある。
つまり、
守りたいものがあるから、敵が生まれる。
何も守ろうとしないのであれば、敵という概念も成立しにくい。
自分が何をされても構わない。
誰が傷つけられても構わない。
何を奪われても構わない。
そう考えるのであれば、多くの存在を敵として認識する必要はなくなる。
しかし、それは敵が存在しないというより、守る対象を設定していないだけである。
自分の生命を守ろうとするだけでも状況は変わる。
自分を殺そうとする存在が現れれば、自分の生存を守るうえで、その存在は敵になる。
ここには、まだ善悪の判断を持ち込む必要がない。
人間を襲う動物を考えれば分かりやすい。
空腹の熊が人間を襲ったとする。
熊は生きるために行動しているだけかもしれない。
人間に恨みがあるわけでも、人間を苦しませることに喜びを感じているわけでもない。
だからといって、
「熊に悪意はないのだから、襲われても抵抗してはいけない」
とはならない。
自分の生命が危険にさらされている以上、自分にとって熊は敵として扱うことができる。
逃げる。
距離を取る。
侵入を防ぐ。
必要なら抵抗する。
何を選ぶかは状況によって異なるが、少なくとも安全を確保する必要はある。
ここで重要なのは、
敵であることと、悪であることを混同しないことである。
熊が悪だから敵なのではない。
自分の安全を損なうから敵なのである。
これは植物同士でも考えることができる。
自分が大切に育てている植物があり、その生育を著しく妨げる別の植物が生えてきたとする。
後から生えてきた植物に悪意などない。
当然、悪人でもない。
ただ、それぞれが生きようとした結果、光、水分、養分、空間などを奪い合うことになる。
自分が一方を守ると決めているなら、その生育を妨げるもう一方は、自分にとって敵として扱える。
ここでも善悪は必要ない。
どちらの植物も生きようとしているだけである。
だが、両者の利害は一致しない。
人間同士でも基本的な構造は変わらない。
ただし、人間の場合は目的が複雑になる。
生命だけではない。
財産を守りたい。
仕事を守りたい。
勝負に勝ちたい。
自分の作品を多くの人に読んでもらいたい。
自分の意見を実現したい。
様々な目的があり、その目的同士が衝突する。
ここで注意したいのは、敵という言葉を生命の危険だけに限定する必要はないということである。
同じ大会で優勝を目指している相手なら、自分が優勝するという目的に対して不都合な存在である。
同じ市場で顧客を奪い合う企業も、互いの利益という観点では敵になり得る。
同じ読者を獲得しようとしている作品同士も、極端に広く捉えれば競争関係にある。
だからといって、相手を害してよいわけではない。
この点は後で詳しく考えるが、敵という判定は、
「この相手を攻撃してよい」
という許可ではない。
単に、
「自分や味方にとって、利益や目的、安全などの面で対立する存在である」
という認識にすぎない。
この区別をしておかなければ、敵という言葉そのものが危険になる。
自分にとって不都合だから敵。
敵だから排除してよい。
排除してよいのだから、どんな手段を使っても構わない。
このように話を飛躍させれば、自分の利益を守るというだけで、ほとんどあらゆる加害を正当化できてしまう。
私が考える敵味方の概念は、そのようなものではない。
敵かどうか。
その敵へ何をしてよいのか。
この二つは別々に考える必要がある。
その前提として、もう一度「味方」について考えてみよう。
味方とは、自分と同じ目的を持つ者だけではない。
自分を助けてくれる者だけでもない。
自分が守りたいと思う存在もまた、味方として扱うことができる。
ここには大きな意味がある。
味方になるために、強い必要はない。
役に立つ必要もない。
自分へ利益を返す能力すら必要ない。
赤ん坊は自分を守ってくれない。
弱った動物も自分を守ってくれないかもしれない。
植物に至っては、人間同士のような意味で自分の味方をしてくれることすらない。
それでも、自分が守ると決めれば、自分との関係において守る側へ置かれる。
だから私は、味方という概念を単純な互恵関係だけでは考えない。
そして、守りたい存在が増えれば、自分自身には直接害のない存在まで敵になり得る。
自分には何もしない人間が、家族を害している。
自分には懐いている動物が、大切にしている別の動物を襲う。
自分には無害な虫が、育てている植物を食べる。
いずれも、自分だけを基準にすれば敵ではないかもしれない。
しかし、味方まで含めて考えれば違う。
自分が守りたい存在の安全を損なう以上、敵として扱う理由が生じる。
ここから、
「自分に害がなければ敵ではない」
とは限らないことが分かる。
敵味方の判定範囲は、自分がどこまでを味方として扱うかによって変化するのである。
これは同時に、敵が主観的な概念であることも意味している。
誰を守るのか。
何を大切にするのか。
どの目的を優先するのか。
それが違えば、敵も変わる。
ある人にとって守るべき存在が、別の人にとっては不都合な存在であることも珍しくない。
だから、二人が同じ相手を見て、一方は味方だと言い、もう一方は敵だと言っても、それだけではどちらかが間違っているとは限らない。
見ている関係が違うからである。
そして、ここでも善悪とは分離しなければならない。
自分が守りたいから善。
自分にとって邪魔だから悪。
そう単純化してしまえば、結局は自分の都合を善悪という言葉へ置き換えただけになる。
自分にとって敵であることは、自分にとって不都合であることを示す。
しかし、それだけでは相手が悪であることを証明しない。
むしろ重要なのは、その先である。
自分には守りたいものがある。
そのため、敵が生まれる。
では、その敵はどれほど危険なのか。
すでに害を与えているのか。
これから害を与える可能性があるのか。
単に目的が衝突しているだけなのか。
そもそも、本当に敵なのか。
敵という言葉を使うのであれば、次に必要になるのは、敵を一種類の存在として扱わないことである。
敵にも、違いがある。
そして、その違いを無視すれば、必要のない相手まで害することになる。




