敵と味方
敵と味方。
この二つの言葉を聞けば、多くの人は自然と善悪を連想するだろう。
物語であれば、主人公の味方は善として描かれ、主人公と戦う敵は悪として描かれることが多い。現実でも、自分を助けてくれる者には好意を持ち、自分を害する者には悪意を感じやすい。
だが、敵と悪は同じものではない。
味方と善も同じものではない。
この二つを同一視すると、善悪について考える以前に、敵と味方という概念そのものを見誤る。
だから今回は、善悪について詳しく考える前に、もっと単純なところから始めたい。
敵とは何か。
味方とは何か。
そして、なぜ敵と味方が生まれるのか。
まず味方について考えてみよう。
私にとっての味方とは、単純に「自分へ利益を与えてくれる存在」ではない。
では、何をもって味方とするのか。
ここでは、自分が「同じ側にいる」と認識している存在を、広い意味で味方と考えたい。
重要なのは、味方だからといって、その存在が自分を助けてくれる必要はないということだ。
自分に金をくれるから味方。
自分の仕事を手伝ってくれるから味方。
自分の意見に賛成してくれるから味方。
確かに、それらを理由として味方になることはある。しかし、それだけでは味方という概念を十分に説明できない。
たとえば、幼い子供を考えてみる。
その子供が自分を守ってくれるとは限らない。金銭的な利益を生み出してくれるとも限らない。むしろ、守るために時間や労力を必要とすることさえある。
それでも、自分がその子供を守り、自分と同じ側にいる存在として扱っているなら、その子供は自分にとって味方になり得る。
動物でも同じだ。
飼っている犬や猫が、自分の生活へ直接的な利益を与えている必要はない。
植物ですら構わない。
大切に育てている花を、自分が守る側にあるもの、自分と敵対する側ではなく自分側に属するものとして扱っているなら、本稿ではそれも広い意味で味方に含める。
つまり、味方という概念を考えるとき、必ずしも相互利益を前提にする必要はない。
重要なのは、
「自分が何を守りたいのか」
である。
では、敵とは何だろうか。
ここで先ほどの花を使って考えてみよう。
自分が大切に育てている花がある。
そこへ、その花を食べる虫が現れた。
花は守りたい。
虫は花を食べる。
この関係だけを見れば、その虫は自分にとって敵になり得る。
しかし、虫が悪なのだろうか。
そんなことはない。
虫は虫として生きているだけかもしれない。
花を食べることに悪意などなく、こちらを苦しめようとも考えていない。
それでも、自分が守りたい花を食べる以上、自分にとって不都合な存在であることは変わらない。
つまり、
敵であるために、悪である必要はない。
これは人間同士でも変わらない。
同じ大会で優勝を目指している二人がいるとする。
一人が勝てば、もう一人は負ける。
互いに相手の目的達成を妨げる存在である。
だから広い意味では敵同士と言える。
しかし、二人ともルールを守り、正々堂々と競争しているのであれば、どちらかが悪である必要はない。
むしろ、このような相手は「好敵手」と呼ぶ方が適切な場合もあるだろう。
敵という言葉には悪い印象が付きまとっている。
だが、その印象を一度取り除いてみれば、敵とはもっと単純な関係として考えることができる。
自分には目的がある。
守りたい存在がいる。
利益がある。
安全に生活したいという希望がある。
それらに対して不都合となる存在が現れる。
そのとき、その存在は自分にとって敵になり得る。
もちろん、世の中のすべてを敵と味方の二種類に分ける必要もない。
自分の人生にほとんど影響しない人間。
自分とも、自分が守りたい存在とも関係のない動物。
存在していることしか知らない植物。
そのようなものまで無理に敵か味方か決める必要はない。
敵でも味方でもない存在は、当然存在する。
さらに重要なのは、敵と味方が絶対的な性質ではないことである。
ある人間が私にとって味方だからといって、世界中の人間にとって味方であるとは限らない。
私が守りたい人間が、別の誰かを害している可能性もある。
その場合、その人物は私にとって味方でありながら、被害を受けている人にとっては敵になり得る。
逆も同じである。
私にとって敵である人物が、家に帰れば誰かを守っているかもしれない。
その人を愛し、守りたいと思っている者からすれば、その人物は味方である。
敵味方とは、その存在に最初から刻まれている絶対的な性質ではない。
誰から見た敵なのか。
誰にとっての味方なのか。
そこには必ず基準となる主体が存在する。
そして、時間によっても変化する。
昨日まで競争していた相手と、今日は協力するかもしれない。
昨日まで協力していた者が、今日は自分を害するかもしれない。
一度敵になったから永久に敵。
一度味方になったから永久に味方。
そのような固定された関係である必要はない。
敵と味方とは概念でありながら、現実の関係によって対象へ与えられる属性でもある。
だから、その関係が変化すれば、敵味方の判定も変わり得る。
ここまで考えると、一つの重要なことが見えてくる。
敵と味方を判断することと、善悪を判断することは、本来別の作業なのである。
敵だから悪。
味方だから善。
そう決めてしまえば簡単だ。
だが、簡単であることと正しいことは同じではない。
善良な競争相手は敵になり得る。
悪事を働く人間であっても、自分を助けるなら一時的には味方として振る舞うことがある。
悪意のない動物でも、自分や守りたい存在を襲えば敵になり得る。
だから私は、敵と味方という言葉を善悪から一度切り離して考えたい。
まず、
自分は何を守りたいのか。
そこを決める。
そのうえで、その存在を守るもの、害するもの、どちらでもないものが見えてくる。
敵と味方とは、善と悪を別の言葉で表現したものではない。
自分と他者との関係を認識するための概念である。
そして、この区別ができなければ、次の問題にも正確には答えられない。
敵が現れたとき、自分は何をしてよいのか。
どこまでなら自分や味方を守るための行為であり、どこから自分自身が害する側へ転じるのか。
その境界を考えるためにも、まずは一つだけ覚えておきたい。
敵であることは、悪であることを意味しない。
味方であることも、善であることを意味しない。
敵と味方。
善と悪。
似て見えるこの二つの対立は、最初から別の基準で考えるべきものなのである。




