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第8話 伏流

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】

"第8話 伏流"


 二日半後、二人は歩き出した。


 どちらも完治していない。グランは右腕がまだ上がらず、スイは息を深く吸うと肋が軋んだ。

 それでも歩けた。歩けるだけの分は、あの石が残していってくれた。


 川に沿って、上流へ。


「川を離れんな」

「なんで」

「水がなきゃお前が何もできねえからだ」


 ――正しい。


 昨日、灰の中でそれを思い知ったばかりだった。


 あの村で、スイの拳には何ひとつ集まらなかった。空気は乾き、地面は焼け、海は遠かった。

 条件が揃わなければ、自分は殴るのが少し上手いだけの人間だ。


「なあ」

「あ?」

「アルケーって、鍛えられんのか」

「鍛えられる」

「どうやって」

「知らねえ」


 スイは足を止めた。


「俺は消えるのが上手くなっただけだ。誰にも教わってねえ」

「王様の兵はな、教わらねえんだよ。生き残った奴が上手い奴だ。それだけだ」


 男は前を向いたまま歩いていた。


「剣の里は違うらしい。あそこは教える」

「教えるってことは、順番があるってことだ」


 三日目に、丘を越えた。


 国境らしいものは何もなかった。柵も、門も、旗もない。

 ただ、道の脇に石が一つ置かれていた。


 文字が彫ってある。半分は苔で読めない。


「これ、なんて書いてある」

「知るか。俺は読めねえ」

「俺も読めねえ」

「じゃあ何も書いてねえのと同じだな」


 二人は石の横を通り過ぎた。


 ――そこから先が、獣王の国ではなかった。


 振り返っても、景色は何ひとつ変わらなかった。

 同じ草が生えていた。同じ風が吹いていた。


 線は、そこにない。

 誰かが決めて、誰かが従っているだけだ。


 スイは、しばらく振り返らずに歩いた。


 最初の町に着いたのは、五日目だった。


 スイが生まれて初めて見る、村より大きな人の集まりだった。


 石を積んだ家。柵で仕切られた通り。荷を積んだ車。

 そして、道の角に立つ細い柱の上で、火が灯っていた。


 ――昼なのに、消えていない。


「あれ、なんだ」

「灯だ」

「油いつ足すんだ」

「足さねえ」


 スイは立ち止まって、その火を見上げた。


 風が吹いても、揺れない。

 油の匂いもしない。


「石が入ってんだよ。中に」

「根源石だ。安いやつな。中身は光だけだ」


 スイは口を開けたまま、しばらくそれを見ていた。


「……そんなことに使うのか」

「そんなことって言うな。都じゃ橋も船も飛ぶ」

「飛ぶ?」

「飛ぶ」


 男は歩き出した。


「神サマの欠片で、夜道を照らしてんだよ。この世界は」


 町の中央に、教会があった。


 スイは、その前で足を止めた。


 白い壁だ。村のものより、ずいぶん立派だった。

 その壁に、紙が一枚貼られている。


 ――絵が添えてある。


 文字が読めない者のために。子供にも分かるように。


 海の底に棲むという、人の形をした何か。

 その横に、大きく三行。


「……行くぞ」


 スイは動かなかった。


「おい」

「読んでくれ」

「読めねえっつったろ」

「じゃあ絵でいい。あれ、何してる絵だ」


 グランは、しばらく黙っていた。


「……人を、喰ってる絵だ」


 風が、紙の端をめくった。


 スイは、その場を動かなかった。


 村の教会にも、同じ紙が貼られていた。

 誰かが破った。村の全員が知っていて、全員が忘れている、あの一枚だ。


 ――破ったところで、世界中に貼ってある。


 破った人間が誰だったのか、スイは一度も聞いたことがなかった。

 聞かなくても分かる程度には、その老人のことを知っていた。


「グラン」

「あ?」

「俺、人喰ったことねえよ」

「知ってる」

「あんたのことも喰ってねえ」

「喰われてたら困る」


 スイは笑った。

 笑って、それから紙を見上げたまま言った。


「これ書いた奴、誰だと思う」

「知らねえ」

「誰かが書いたんだよな。俺のこと一回も見たことねえ誰かが」


 答えは返ってこなかった。


 ――尤も。


 その一枚を最初に書かせた者だけは、彼らが危険でないことを知っていた。

 知った上で、書かせた。


 だが、それを知る者はこの町にひとりもいない。

 海の底に人喰いがいると、この町の子供は今日も教わっている。


 二人は町を出た。


 宿には泊まらなかった。金がなかったし、顔を見られたくもなかった。


 町外れの街道で、グランが足を止めた。


「ここからは、まっすぐ西だ」

「山を二つ。谷を一つ。それで着く」

「どんくらいかかる」

「歩いて、ひと月」


 スイは西を見た。


 山があった。

 その向こうにも、たぶん山があった。


 海は、もうどこにも見えなかった。


「なあグラン」

「なんだ」

「あんた、なんで来てんだ」


 男は答えなかった。


「あんた、俺を殺しに来た奴だぞ」

「王様に殴られて、石まで使って、まだついてきてる」

「意味わかんねえよ」


 グランは、しばらく西を見ていた。


 それから、頭を掻いた。


「……あの村な」

「うん」

「丘の上から見た時、飯の匂いがした」


 風が吹いていた。


「俺、そういうとこで育ってねえんだよ」


 それだけ言って、男は歩き出した。


「行くぞ。日が暮れる」


 スイは、その背中を追いかけた。


 ――胸の奥が、まだ熱かった。


 誰にも言っていない。

 言う相手が、もういない。


 だが確かに、そこにある。


 六十年ぶんの凪も、八十人分の夜も、丸太の上で煙管をふかしていた老人の背中も。

 全部そこに沈んでいる気が、なぜかしていた。


 根拠はなかった。

 根拠はなかったが、そう思うことにした。


 そう思っていないと、歩けなかったからだ。

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