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第7話 真水

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】

"第7話 真水"


 目が覚めた時、海の音がしなかった。


 それだけで、全部を思い出した。


 岩の窪みだった。頭上に庇のように張り出した岩がある。近くで細い水音がしていた。川だ。塩の匂いがしない水の音を、スイは初めて聞いた。


「起きたか」


 声のほうを見た。


 男が座っていた。座っているだけで岩壁が狭い。

 顔の腫れは引いていない。片目はまだ塞がったままだ。


「……ここ」

「丘、三つ越えた先だ」

「三つ?」

「二つで限界っつったろ。ありゃ嘘だ」


 スイは体を起こそうとして、途中でやめた。

 肋が、まだ生きている痛み方をしていた。


「なんで歩けたんだよ、あんた」


 グランは答えなかった。


 代わりに、握っていた掌を開いた。


 ――小さなものが、そこにあった。


 親指の先ほどの石だ。

 黒でも白でもない。日に透かすと、内側で何かが緩く回っている。


「なんだそれ」

「根源石だ」


 男は、それを指で挟んで持ち上げた。


「中身は回復。誰のもんだったかは知らねえ。俺のじゃねえのは確かだ」

「根源力を注ぎゃ効く。ただし、入ってるぶんしか出ねえ」

「使い切ったら、ただの石だ」


 スイは、しばらくその石を見ていた。


「……そんなもん、持ってたのか」

「持ってた」

「なんで無事なんだ。あんた、あれだけやられて」


 グランは、片方だけ開いた目でスイを見た。


「誰も、俺の身ぐるみを剥がさなかった」


 言葉が、そこで一度切れた。


「剥がす価値もねえと思われたんだろうな」


 川の音がした。


「おかげで、これが残った」


 男は肩を回した。骨が鳴った。


「必要なぶんだけ使った。指が動く程度。肺が保つ程度」

「歩ける程度。――消える程度」


 スイは、目を伏せた。


 昨日、この男は折れた肋で肺を潰しながら、呼吸を止めて自分を担いだ。

 あれは根性ではなかった。計算だった。


 どこまで使えばどこまで動けるか。

 この男は、それを潰された直後の頭で組み立てていた。


「残りは、お前だ」

「いらねえ」

「聞いてねえ」


 石が、胸の上に置かれた。


 温かいものが入ってくる。

 裂けた肩の縁が痺れ、折れた肋の周りが鈍く疼いて、それから痛みが遠のいた。消えたのではない。奥に沈んだ。


 ――そして。


 胸の奥が、動いた。


「……おい」

「なんだよ」

「今、吸われたぞ」


 男は掌の石を見ていた。


「注いだ分より、減ってる」


 スイは自分の胸に触れた。

 何もない。骨と、皮と、その下の熱があるだけだ。


「……分かんねえ」

「分かんねえのかよ」

「昔から熱いんだよ、ここ。潜ると熱くなる」

「潜ってねえだろ、今」

「そうだな」


 二人とも、それ以上は言わなかった。


 石は、もう光っていなかった。

 ただの石になっていた。


 昼過ぎに、スイは川へ行った。


 誰にも言わずに行った。行こうと思って行ったわけでもなかった。

 気づいたら、水の中に手を入れていた。


 流れが遅い。塩気がない。魚の逃げ方が違う。

 それでも、獲れた。


 ――三匹。


 いつもと、同じ数だった。


 戻る途中で、足が止まった。


 道の真ん中だった。何もない場所だった。

 両手に、魚が三匹。


 ――誰に、渡すんだ。


 その場に座り込んだ。


 魚は、まだ跳ねていた。

 スイは、それをずっと見ていた。


 やがて、両手で顔を覆った。


 声は出なかった。

 出す相手が、いなかったからだ。


 どれくらいそうしていたのか、分からない。


 足音がした。

 重い足音だった。隠す気のない歩き方だった。


 グランは、何も言わなかった。

 隣に腰を下ろして、ただ座っていた。


 川の音がした。

 しばらく、それだけだった。


「……焼くか」


 スイは顔を上げなかった。


「腹、減ってんだろ」

「……減ってる」

「じゃあ焼く」


 男は魚を拾い上げて、立ち上がった。


「三匹あんぞ。俺とお前で二匹だ」

「一匹余るな」

「余らねえよ。俺がでかい」


 火を熾すのに、ずいぶん時間がかかった。


 二人とも指がうまく動かなかったからだ。


 焼けた魚は、塩がないぶん味が薄かった。

 それでもスイは全部食べた。骨まで齧った。


「うまいか」

「まずい」

「だろうな」


 日が落ちてきていた。


 スイは、川の向こうを見ていた。

 海のない景色だった。生まれてから一度も見たことのない種類の景色だった。


「グラン」

「あ?」

「あの使者、名前なんつったっけ」

「……ヴィス・ノーレン」

「そうだ。それだ」


 スイは、その名前を口の中で二度繰り返した。


「あいつ、指一本動かしてねえよな」

「動かしてねえな」

「なのに八十人死んだ」


 火が爆ぜた。


「王を殴っても、意味なかった」

「あいつは死なねえし、次の勝つ方に乗り換えるだけだ」

「そういう風にできてるんだよ、あの世界」


 グランは何も言わなかった。


「だから――形を変える」


 スイは立ち上がった。


 まだ膝が笑った。それでも立った。


「決められる立場ってやつを、この世からなくす」

「そのためにラグナロク出る。勝って、全部返す」


「勝てねえよ、今のお前じゃ」

「知ってる」

「王ひとりに二回とも足りてねえ。あれは十人のうちの一番下だ」


 ――スイの動きが、止まった。


「……一番下?」

「知らねえのか」


 男は火を掻き回した。


「この世界で一番強い十人ってのが決められてる。帝国が管理してる」

「それが十王…獣王様は、その十番目だ」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 スイは座り直した。座り直して、笑った。

 ひどく乾いた笑い方だった。


「……あれで、一番下か」

「そうだ」

「上、どんななんだ」

「知らねえ。知ってる奴は大体死んでる」


 火が小さくなっていた。


「一個だけ、あてがある」


 グランが言った。


「ここから西に、剣の里ってのがある」

「昔、魔王を殺した男が作った里だ。今も人を鍛えてる」


「なんで知ってんだ」

「獣王様が三回、使いを出して三回とも断られてる」


 男は、少しだけ笑った。


「あそこは王様の手が届かねえ。この国の外だからだ」


 スイは川を見ていた。


 塩気のない水が、静かに流れていた。

 この水も、いずれ海に出る。どこかで必ず海に出る。


「歩けんのか、あんた」

「歩けるわけねえだろ」

「じゃあ担ぐ」

「お前が担げる重さじゃねえよ」

「担ぐっつってんだ」


 男は、しばらく黙っていた。


 それから、頭を掻いた。


「……三日休ませろ」

「二日」

「三日だ。死ぬぞ」

「二日半」

「値切るとこじゃねえんだよ」


 火が消えた。


 その夜、雨が降った。


 海のない場所で聞く雨の音を、スイは初めて聞いた。

 いつまでも、眠れなかった。

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