第6話 大潮
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第六話 大潮"
村に、風がなかった。
燃えているのに、風がない。
木は爆ぜている。屋根も落ちている。音は鳴っている。
ただ、煙がまっすぐ立っていた。
斜めに流れない。散らない。糸を引くように、ただ真上へ昇っていく。
この浜で、そんな煙の立ち方を見たことがない。
スイは歩いた。
井戸の縁に、洗いかけの網がかかっていた。
誰も取り込んでいなかった。
――丸太は、そこにあった。
いつもの場所に、いつもの向きで。
その上に、いつもの老人が座っていた。
座ったまま、上体だけが前に折れていた。
煙管が砂に落ちている。火は、とうに消えていた。
「バルドさん」
背中に触れた。
温かい。焼かれた温かさではなかった。
どこにも傷はなかった。
「……スイか」
声が出た。
スイの膝が砂についた。
「バルドさん、おい、バルドさん」
「うるさい」
「……耳は、まだ生きとる」
老人は顔を上げなかった。上げる力が残っていなかった。
「魚は」
「……獲ってねえ」
「そうか」
それきり、何も言わなかった。
スイが何か言おうとして、言葉にならず、口を開けたまま止まった。
「風はな」
ぽつりと言った。
「止めとる。まだ、止めとるからな」
「向こうの林まで、行かんように」
スイは辺りを見た。
村は燃えている。全部燃えている。
――だが、丘の斜面の草には、火が一本も移っていなかった。
「……戻ってきたか」
「戻った」
「なら、ええ」
それが、最後だった。
風は、吹かなかった。
その体はもう何も考えていない。それでも、六十年やってきたことを、まだやめていなかった。
丘の上に、影が立った。
地面が鳴った。歩いているだけだ。歩いているだけで、燃えている家が二軒崩れた。
「――貴様」
スイは立ち上がった。
振り返らなかった。振り返る必要がなかった。
その声が、この世で一番殺したい音になっていた。
「二度も、俺の前に立つか」
スイが動いた。
考えていなかった。
考える機能が、今この体には積まれていなかった。
拳が、獣王の腹に届いた。
――届いただけだった。
水がない。
燃えている。この村の水は、全部空へ昇ってしまっていた。
「――ほう」
掴まれた。
片手で。頭を、丸ごと。
「昨日と違うな」
「昨日のお前は、ひとつも無駄がなかった」
地面に叩きつけられた。
二度。三度。四度。
そのたびに砂が跳ね、燃え残った柱が倒れた。
「今のお前は、全部が無駄だ」
放り投げられた。
スイは灰の中を転がって、止まった。
立った。
「……なぜ立つ」
王は、スイの背後の村を見ていた。
初めて見た、という目をしていた。
「これは、なんだ」
スイは答えなかった。
「俺は焼けと言っていない」
――風がなかった。
だから、その声はどこにも流れず、まっすぐスイの耳に届いた。
「昨日、貴様に潰された。目が覚めたのは今しがただ」
「命を出す口が、俺にはなかった」
「……嘘だ」
「嘘をつく必要が、俺のどこにある」
スイは、動けなかった。
殴る相手が、目の前にいる。
殴る理由が、いま消えた。
だが、村は燃えている。
――誰だ。
誰がやった。誰に返せばいい。この重さを、どこへ置けばいい。
置き場所が、なかった。
「……知らねえよ」
スイは笑った。
ひどい笑い方だった。
「知らねえよ、そんなこと」
「あんたが決めたんじゃなくても、あんたの兵が来たから、あんたの使いが来たから、こうなってんだよ」
「あんたが世界の形を決めたがったから、俺の村がなくなってんだ」
獣王の顔から、表情が抜けた。
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「――ならば」
骨が、鳴った。
肩が上がる。上がりきらない。骨が伸びている。皮膚が追いつかず、裂けて、下から別の皮膚が出てくる。
燃える村の火が、その輪郭を照らした。
照らしきれなかった。
大きすぎた。
「ならば、それでいい」
――獣のアルケー。
この王が昨日それを使わなかったのは、慢心ではない。
使えなかったのだ。眠りから叩き起こされ、素の体のまま殴り合いを始めさせられた。血が上がりきる前に、衝撃が来た。
今は違う。
二度潰された。灰の中に立たされた。
この王の血は、いま、生涯で最も高い場所にある。
地面が消えた。
スイの視界から、地面という概念が消えた。
叩きつけられたのだと理解したのは、肋が三本折れてからだった。
噛まれた。
肩から先が、口の中にあった。
振り回され、投げられ、また噛まれた。
――違う。
昨日と、何もかもが違う。
昨日のあれは、寝起きの男が片手で振るった腕だ。
今のこれは、そういうものではない。
スイは灰の上を転がり、止まり、立とうとして、膝が笑った。
右腕を握る。
――水が、来ない。
村は燃えている。この一帯の水は、全部空へ昇ってしまっていた。
海は、ある。背中側に、確かにある。
だが遠い。
昨日、あの一撃が届いたのは、陣に朝露があったからだ。地面が湿っていたからだ。夜明け前だったからだ。
条件が、ひとつも揃っていない。
――ああ。
スイは、そこで理解した。
あれは自分の技ではなかった。
たまたま扉が開いて、たまたま手が届いた。それだけのことだった。
二度目は、ない。
獣が跳んだ。
――そして、スイの体が、横へ引かれた。
誰かが襟を掴んでいた。
獣の顎が空を噛み、灰が舞い上がる。
視界が白く濁った、その一瞬。
――世界から、色が抜けた。
自分の腕が見えない。掴んでいる手も見えない。
燃える村だけが、そこにある。
「息、止めろ」
耳元だった。
「汗も、涙も、全部止めろ。今すぐだ」
スイは反射で息を止めた。
巨体が、そこにある。触れているから分かる。
だが見えない。匂いすらしない。
――カメレオンのアルケー。
昨日、この男は自分の汗と呼吸で見破られた。
だから今、それを全部殺している。折れた肋で、潰れた肺で。
獣が、灰の中で止まった。
首を回す。鼻が鳴る。耳が動く。
――いない。
この王は、匂いで人を追う。音で人を裂く。
その全部が、今この場所からひとつも上がってこない。
「――どこだ」
燃える音だけが返事をした。
グランが、動いた。
歩幅を殺し、灰を踏まず、焼け跡の縁を這うように。
スイを引きずったまま、一歩ずつ、丘とは逆の方向へ。
海沿いの岩場だ。潮が引いている。
背後で、獣が家を潰す音がした。
二軒。三軒。もう燃えるものが残っていない場所を、それでも潰している。
探しているのではない。
――当たり散らしている。
岩場に入ってから、ようやくグランが囁いた。
「息、吸っていい」
「……」
「吸えっつってんだ」
スイは息を吸った。
吸って、咳き込んで、口から血が出た。
「馬鹿が」
「勝ったのになんで帰ってきやがる」
「……帰る用事があった」
「あるかよ」
男の声が、そこで途切れた。
村の方を見ている。見えない顔で、見ている。
「……そうか」
それだけ言った。
二人とも、しばらく黙っていた。
波が寄せて、引いた。
いつもと同じ音だった。
「歩けるか」
「無理」
「じゃあ担ぐ」
「あんた肋折れてんだろ」
「お前もだろうが」
巨体が、スイを背負った。
見えない体が、見えない体を担いでいる。
傍から見れば、そこには誰もいない。
「言っとくが、これ長く保たねえぞ」
「どんくらい」
「丘、二つ」
「足んねえよ」
「知るか」
男は歩き出した。
灰の海を、燃える村を、丸太の置かれた浜を。
全部、背中にして。
――スイは、最後に一度だけ振り返った。
煙が、斜めに流れていた。
その景色を、この男は生涯忘れない。
忘れないことだけが、今この体にできる唯一のことだった。
丘をひとつ越えた頃、獣の咆哮が聞こえた。
遠かった。
まだ、村の中にいる音だった。
「なあ」
「なんだ」
「お前、これからどうすんだ」
スイは、答えなかった。
答えなかったが、目は開いていた。
――殴る相手を、間違えていた。
あの使者は、指一本動かさずに八十人を殺した。
王を殴っても、あれは死なない。あの男は次の勝ち馬に乗り換えるだけだ。
強いだけでは、足りない。
なら、何が要る。
――形を、変えるしかない。
誰かひとりが決められる世界である限り、同じことが起きる。
決められる立場そのものを、この世からなくすしかない。
「ラグナロク、出る」
背中の上で、そう言った。
「……そうか」
「止めねえのかよ」
「止める体力がねえ」
男は歩き続けた。
やがて、二人の輪郭が戻ってきた。
限界だった。
それでも、丘はもうふたつ越えていた。




