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第5話 水無月

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】

"第5話 水無月"


 陣は、まだ起きていなかった。


 夜明け前だ。篝火が半分ほど落ちている。見張りは立っているが、目が死んでいる。丘の上の村ひとつを潰すのに、この軍は緊張という言葉を必要としていない。


 スイは、稜線を歩いて下りた。


 隠れなかった。

 隠れる意味が、もうなかった。


「――おい」


 誰かが気づいた。声が上がる。次の声が上がる。それが広がる。

 やがて、陣全体が起き上がった。


 スイは歩き続けた。


 止まらない人間を、人はすぐには斬れない。

 斬るには一度、理解しなければならないからだ。理解が追いつく前に、スイは陣の中央まで来ていた。


 特段、そこにいた。


 石の上に座ってはいなかった。

 立っていた。


 ――背後の空が、まだ見えない。


 夜明けの光が稜線から差してきている。それがこの男の肩より上に届いていない。

 人の形をしている。それは間違いない。腕が二本あり、足が二本ある。

 ただ、そのひとつひとつが、家一軒ぶんの意思を持って動いている。


 獣王である。


「起こしたのはお前か」

「そうだ」

「なぜ来た」


 スイは立ち止まった。


 見上げる。首が痛くなるほど見上げる。

 ――それでも、まだ足りなかった。


「村を焼くのをやめてくれ」


 沈黙。


 次の瞬間、陣の全員が笑った。

 王だけが、笑っていなかった。


「昨日も同じことを言われた」

「知ってる。見てた」

「見ていて、逃げなかったのか」

「逃げた。それで今、戻ってきた」


 王が、わずかに顎を引いた。


「――で、条件は」

「ない」

「ない?」

「ただ頼んでる」


 風が吹いた。

 旗が鳴った。


 獣王は、しばらくスイを見下ろしていた。


「面白い」

「昨日の男は、俺の得にならんと言った。筋が通っていた。だから殴った」

「お前は、得の話をしない」


 王は一歩、前に出た。


 その一歩で、地面が沈んだ。


「頼む、というのは対等な人間が使う言葉だ」

「お前は、俺と対等のつもりか」


「違う」

「では、なんだ」


 スイは、笑った。


「頼むしか、やり方を知らねえんだよ」


 ――打たれた。


 見えなかった。速度ではない。大きすぎて、動作が動作に見えなかった。


 スイの体が地面を削って飛び、天幕を三つ潰して止まった。


 立った。


 肩が外れている。片方の耳が聞こえない。

 立った。


「ほう」


 王の声が、初めて動いた。


「海の民か」

「……知ってんのか」

「探していた。教会の紙のとおりに報せが来た。だから使いを出した」


 王は、その巨大な掌を開いて眺めた。


「人ならざる肉、だったか」

「――事実だな。今のは、村ごと消えるはずの一撃だ」


 スイは肩を嵌め直した。

 音がした。膝が笑った。それでも立っていた。


「あんた、根源は」

「使うと思うか」


 答えだった。


 昨日、グランにも使わなかった。

 今日も使う気がない。


 ――そういう扱いだ。


 二度目が来た。


 今度は避けた。避けきれず、掠めた。掠めただけで、体が半回転した。

 三度目。腕で受ける。骨が鳴る。折れてはいない。折れる代わりに、全身が軋んだ。


 四度目。

 五度目。


 スイは倒れなかった。

 倒れるという選択肢を、最初から持ってきていなかった。


「――なぜ立つ」


 王が言った。

 愉快そうではなかった。困惑していた。


「痛みはあるのだろう」

「あるよ」

「なぜ立つ」


 スイは、口の中の血を吐いた。


「あんたには分かんねえよ」


「俺、帰る用事があんだ」


 ――その時。


 スイの中で、何かが繋がった。


 説明できることではない。後から思い返しても、順番すら分からない。

 ただ、聞こえた。


 波の音がした。


 この陣に海はない。丘の向こうだ。届くはずのない距離だった。

 それでも、聞こえた。


 寄せて、引いて、また寄せる。

 ――ずっと、聞いていた音だ。生まれる前から、聞いていた気がする音だ。


 胸の奥が、熱い。


 熱の在り処が、初めて分かった。

 自分の中に、自分ではないものがある。ずっとあった。数えきれないほどの、誰か。


 その全員が、同じ音を聞いて生きていた。


 ――ああ。


 水とは、これのことか。


 スイの周囲の大気が、鳴った。


 朝露が。兵の額の汗が。天幕に残る夜の湿りが。地面の下の水脈が。

 この陣にあるすべての水が、一斉に、ひとつの方向を向いた。


「――何を」


 王が、初めて後ろへ体重を移した。


 スイは右手を握った。


 掌の中に、水が集まってくる。

 量ではない。密度だ。空気から絞り、地から吸い上げ、圧し潰し、また圧し潰す。


 拳が、色を失っていく。

 深海の色ですらない。光を返さない、ただの黒になった。


 ――海の底には、光が届かない。

 届かない場所にも、水はある。誰にも見られないまま、この世界で最も重いものとして、そこにある。


 スイは踏み込んだ。


「――水無月(みなづき)」


 打った。


 音がなかった。


 衝撃も、風圧もなかった。

 拳が獣王の腹に触れた。それだけだ。触れた場所から、光が消えた。


 ――そして、内側が海になった。


 王の巨体が、内から膨れた。

 膨れて、痙攣して、そのまま前のめりに崩れた。


 地面が跳ねた。陣の天幕が全て倒れた。兵が転んだ。

 誰も、何が起きたのか分からなかった。


 スイ自身にも、分からなかった。


 拳は、もう黒くない。

 波の音は、もう聞こえない。


 ――一瞬だけ、扉が開いて、閉じた。

 開いていた間に何を見たのか、思い出せない。


 スイは倒れた獣王を見下ろした。

 息はある。潰れてはいない。だが、この男はしばらく立てないだろう。


「……村、焼くなよ」


 返事はなかった。


 誰も追ってこなかった。

 追う人間が、この陣にはもういなかった。


 スイは丘を登った。


 肋が痛む。片耳がまだ聞こえない。それでも足が動いた。

 登りきれば海が見える。海が見えれば村がある。村があればバルドがいて、魚を獲ってこいと言った男が、丸太に腰かけて煙管をふかしている。


 ――笑っていた。


 勝った。勝ったのだ。

 あの化け物を、自分は。


 稜線に立った。


 朝日が、真正面から差していた。


 眩しくて、一度だけ目を細めた。

 細めて、開いた。


 海が見えた。

 村が、見えなかった。


 ――黒い煙が、まっすぐ空へ昇っていた。


 風が、なかった。

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