第4話 満ち潮
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
第4話 満ち潮
岩場の奥に、洞がある。
潮が引いた時だけ入口が顔を出す穴だ。子供の頃、スイが見つけた。誰にも教えていない。教える相手もいなかった。
そこへ、丸太のような男を押し込んだ。
「……いてえ」
「黙ってろ」
「いてえっつってんだ」
「黙ってろって言ってんだよ」
指を三本、順に引いて戻す。
そのたびに洞の壁が震えた。
顔は洗った。裂けた眉の上を、乾いた布で押さえてある。
肋が何本か折れている。それは、どうにもならない。
「……何しに来た」
「魚獲りに」
「丘の上に魚はいねえよ」
「いねえな」
スイは膝を抱えて、洞の入口を見ていた。
潮が満ちてきている。
外は、まだ暗い。
「見てたのか」
「見てた」
「……全部か」
「全部」
しばらく、波の音だけがした。
「なんで出てこなかった」
「出てったら死ぬだろ」
「そうだな」
「死んだら、村がどうなるか分かんねえだろ」
グランは天井を見上げたまま、ひとつ息を吐いた。
肋に響いたのか、途中で止まった。
「……賢いじゃねえか」
「うるせえ」
スイは膝に顔を埋めた。
「一秒も、目ェ逸らさなかったぞ俺は」
「それが精一杯だった」
「精一杯やって、何もしてねえのと同じだった」
――胸の奥が、熱かった。
深く潜った日と同じだ。冷えるべき場所が温かい。
今日は一度も潜っていないのに。
「なあ」
「なんだよ」
「ラグナロク、知りてえって顔してんぞ」
スイは顔を上げた。
「昔な。教会がふたつに割れた」
男は、天井に向かって喋りはじめた。
起き上がれないからだ。
「片っぽは"進め"って言う。片っぽは"守れ"って言う。それだけの話だ」
「それだけの話に、国が乗った。国が乗ったら戦争だ」
「何年続いたと思う。何人死んだと思う」
「誰も数えてねえよ。数えたら気が狂うからだ」
波が、洞の口を叩いた。
「だから帝国が決めた」
「――喧嘩がしてえなら、そこでやれ、と」
「各国が代表を出す。人数は決まってねえ。剣でも拳でも根源でも構わねえ」
「そいつらが潰し合う。最後に立ってた奴の国が、勝ちだ」
「勝ったら」
「世界の形を決められる」
「……形」
「線の引き方だ。どこからどこまでが誰の国か。誰が誰に頭を下げるか」
グランは、少しだけ首を動かしてスイを見た。
「全部、勝った奴が一人で決める」
スイは、動かなかった。
洞の外で、潮が満ちていく音がした。
寄せて、引いて、また寄せて。一度ごとに、少しずつ高くなる。
「……一人で?」
「一人でだ」
長い沈黙だった。
やがてスイは、洞の入口の方を向いたまま口を開いた。
「じゃあ、それが原因じゃねえの」
「あ?」
「一人で決められるから、村が焼けんだよ」
波の音が、途切れた。
「あの王さだって、別に俺の村が憎いわけじゃねえだろ」
「決められるから、決めただけだ」
「そういう立場にいる奴が、たまたま気分悪くて、八十人死ぬ」
「そういう形の世界だから、そうなる」
グランは何も言わなかった。
言えなかった、というほうが近い。
この男は今日、まったく同じことを、まったく別の言葉で王に言った。
そして、こうなった。
「なあグラン」
「……なんだ」
「俺が勝ったら、どうなる」
「は」
「俺が出て、勝ったら、俺が世界の形を決められるんだろ」
「そりゃ、そうだが」
スイは振り返った。
笑っていた。
いつもと同じ笑い方だった。
「じゃあ、決めねえ」
「……あ?」
「もらった瞬間に、全部返す」
「元の国に、元のまんま。誰にも渡さねえ」
「誰も、他所の形を決められねえようにする」
洞の中が、静かになった。
グランは、しばらく口を開けたままだった。
それから、笑った。笑って、肋に響いて、呻いて、また笑った。
「……おい」
「お前、それがどんだけ馬鹿な話か、分かって言ってんのか」
「分かってねえよ」
即答だった。
「分かってねえけど、他に思いつかねえ」
潮が、洞の入口まで来ていた。
もう少しで、ここは水に沈む。
スイが立ち上がった。
「おい」
「魚獲ってくる」
「ふざけんな」
男は動こうとした。
肘が地面を擦っただけで、体は起き上がらなかった。
「勝てねえぞ」
「知ってる」
「あれは人間じゃねえ」
――スイの脳裏に、昼間の影が残っている。
グラン・ボルクは、この村の誰よりも大きい。
その男が、正面に立った時に子供に見えた。
立ち上がっただけで日が翳った。
あの一撃は、腕を振ったのではない。山が動いただけだ。
「見た」
「見て、まだ行くのか」
「行く」
入口の岩に手をかける。
「なんでだよ」
スイは、少しだけ考えた。
それから、答えた。
「バルドさんに、魚獲ってこいって言われてんだ」
男が出ていった後、洞には潮の音だけが残った。
グラン・ボルクは、動かない体で天井を睨んでいた。
肋が折れている。指も折れている。立てば倒れる。走れば死ぬ。
――動かない理由には、ならなかった。
「……くそったれが」
男は、片手を地面についた。




