第3話 時化
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第3話 時化"
朝から海が荒れていた。
白波が立ち、風が砂を巻き上げている。舟は全部陸に上げられていた。それでも綱が唸っていた。
そんな中で、丸太に腰かけた老人の周りだけが、静かだった。
風が届いていない。
波が、その足元から一歩手前で崩れて、それ以上寄ってこない。
この老人には、根源がある。
凪。
周囲の波と風を止める。それだけだ。
斬れない。焼けない。壊せない。人ひとり殴り倒すこともできない。
――だが、この村の舟は一度も沈んでいない。
子供が浅瀬で泳げるのも。婆さんが岩場で足を滑らせないのも。時化の日に誰も死なないのも。
この老人が毎朝、同じ丸太に腰を下ろしているからだった。
誰もそれを言わない。
言うほどのことでは、ないからだ。
「行くのか」
「行く」
止められると思っていた。
バルドは、煙管をふかしただけだった。
「止めねえのかよ」
「昨日止めた。二度は言わん」
老人は海を見ていた。
白波が、足元の手前で崩れ続けている。
「わしのはな」
点々と言った。
「海しか、静かにできん」
――丘の火は、止められない。
スイは何も言わなかった。
言葉が出てこなかったのではない。出す資格がないと思っただけだ。
背を向けて、歩き出す。
「スイ」
振り返らずに立ち止まった。
「魚、獲ってこい」
「……あ?」
「帰ってくる用事がないと、人は帰らんからな」
風が鳴っていた。
老人の周りだけ、静かだった。
丘を越えた先に、陣があった。
天幕の数は数えるのをやめた。旗が立っている。獣の頭を象った紋章だ。この一帯で、あれを見て足が竦まない人間はいない。
スイは岩陰に伏せた。
――そこに、グラン・ボルクがいた。
中央の広場だ。片膝をついている。
その正面に、男が座っていた。
椅子ではない。誰かが用意した石の上に、無造作に腰を下ろしている。それだけで、周囲の兵が全員、半歩ずつ下がっていた。
背、というよりも肩幅含めた体躯はグランよりよほど大きい。
だが、大きさの話をしている者はひとりもいなかった。
獣王である。
「グラン」
「はっ」
「お前、俺に意見したのか」
「……はい」
男は笑った。
愉快そうだった。心の底から。
「面白いな。何年ぶりだ」
「言え。全部言え。途中で止めるなよ。止めたら聞いた意味がなくなる」
グランは、顔を上げた。
「あの村を焼く必要は、ございません」
「あそこには八十人しかおりません。舟は四つ。武器はありません。獲れる魚も、大した量ではない」
「――焼いても、王の取り分は一銭も増えません」
風が吹いた。
旗が鳴った。
「見せしめならば、他所でもできます」
「あの村でなくとも」
「なるほど」
男は頷いた。
深く、丁寧に頷いた。
「筋が通っている」
「よく言った。俺は筋の通った話が好きだ」
立ち上がる。
「――で。お前、それを俺に言うのに、どれだけ悩んだ」
グランは答えなかった。
「悩んだんだろう。三日か。四日か」
「悩んだ、ということはだ」
歩み寄る。
「お前は、俺が間違えると思ったわけだ」
鈍い音がした。
グランの巨体が、真横に吹き飛んだ。
地面を二度跳ねて、天幕の支柱を折って、止まる。
誰も動かなかった。
息をした者すら、いなかった。
「集めろ」
王は手を払いながら言った。
「全員だ。見えん奴は前に出せ。始めるのは全員揃ってからだ」
――スイは、岩陰から動かなかった。
動けなかったのではない。
動かなかった。
飛び出せば死ぬ。それは構わない。
死んだ後、村がどうなるか。それだけを考えていた。
だから、自身の爪が掌を割って血が流れようとも、動かなかった。
見ていた。
最後まで、一秒も目を逸らさずに。
それが今の自分にできる唯一のことだった。
――何ひとつ、できないのと同じだった。
日が落ちてから、ようやく人がいなくなった。
グラン・ボルクは、まだ地面にいた。
誰も片付けなかった。片付ける価値がないとされたからだ。
スイは走った。
「おい」
返事はなかった。
顔の形が変わっていた。片目が開かない。指が三本、あらぬ方を向いている。それでも息はあった。
この男は、殺されなかったのだ。殺されるより悪いことをされた。
「グラン。おい、聞こえてんだろ」
巨体を担ぎ上げる。
重い。海の民の膂力をもってしても、正気の重さではなかった。
それでもスイは歩いた。一歩ずつ、丘の方へ。
背中の上で、掠れた声がした。
「……待てっつったろ」
「聞いてねえよ」
「聞けよ」
「聞かねえ」
しばらく、二人とも黙っていた。
波の音が、遠くから聞こえてきていた。
「……なあ」
「なんだ」
「あの村、いい匂いがしたな」
夜だった。
空に、雲がひとつもなかった。
刻一刻と、タイムリミットが迫ってきていた




