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第2話 浅目

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】

"第二話 潮目"


 丘の上に、火が並んだ。


 夜だった。


 最初にひとつ。次にふたつ。数えているうちに数えられなくなった。松明の列が稜線をなぞり、そこだけ夜が薄くなっていく。


 村の誰かが走った。

 誰かが、走るのをやめた。


 逃げる場所がないと気づくまでに、そう時間はかからなかった。この村は海と丘に挟まれている。丘には火がある。ならば残るのは海だけだ。


 舟は四つ。

 人は、八十。


「スイ」


 老人は煙管を持っていなかった。

 持っていない手が、震えていた。


「行くな」

「まだ何も言ってねえよ」

「顔が言っとる」


 スイは丘を見上げたまま、しばらく黙っていた。


「バルドさん。あの火、ここまで何日かかる」

「……三日。いや、二日か」

「じゃあ二日ある」


 振り返って、笑った。

 いつもと同じ笑い方だった。


「なんとかなるだろ」


 なんとかなるわけがなかった。

 それを、この場の全員が知っていた。


 その夜、スイは浜へ出た。


 いつもの岩場に腰を下ろす。潮が引いていた。露出した岩の窪みに、取り残された海水が溜まっている。月が映って、割れて、また戻る。


 ――静かだ。


 静かすぎた。


 波の音がする。風の音がする。虫の音がする。全部いつもどおりだ。

 いつもどおりで、ひとつだけ多い。


 呼吸だ。


 スイは動かなかった。

 岩に手をついたまま、水面の月を見ている振りをする。


 息を殺している人間がいる。

 殺しきれていない人間が。


 ――それに。


 汗をかいている。


 風が凪いだ。


 その一瞬に、砂が鳴った。


 背後。腕を伸ばせば届く距離。届く場所に、さっきまで何もいなかった。


 スイは振り返らなかった。

 振り返る代わりに、右手を水溜まりへ突っ込み――掬った。


 水が跳ねた。


 跳ねただけだ。掌一杯の海水が、ただ後ろへ撒かれた。それだけの動作。


 ――だが、水は形を選ばない。


 撒かれた海水は空中で薄く広がり、何もないはずの場所へ張りついた。


 輪郭が、生まれる。


 肩。首。そして、スイの頭ひとつ分は高い位置にある、丸太のような上腕。


 人型だった。

 ただし、この村の誰よりも大きい。


「――は?」


 低い声だった。

 困惑が、そのまま音になっていた。


 輪郭が、内側から色を取り戻していく。


 浅黒い肌。剃り上げた頭。首から肩にかけて古い傷が何本も走っている。腕を丸太だと思ったのは錯覚ではなかった。実際に丸太だった。


 巨漢である。

 立っているだけで、浜が狭くなった。


「なんで分かった」

「あんた、汗かきすぎ」

「……あ?」

「息も荒い。走ってきたろ、丘越えて」


 スイは立ち上がり、掌の水を払った。


「透明になんのは大したもんだと思うぜ。マジで見えなかった」

「けど、体から出てくもんまでは消せてねえぞ」


 グランは、しばらく黙っていた。


 それから、頭を掻いた。


「……なるほどな」


 悔しがってはいなかった。

 むしろ、少しばかり楽しそうだった。


「グラン・ボルクだ」

「スイ」

「知ってる」


 男は肩を回した。骨が鳴った。


「獣王様の使いで来た」

「今日で二人目だぞ」

「前のは使者だ。俺は違う」


「連れて帰るか、殺すか。どっちかだ」


 アルケー。


 万物の根源。世界そのものを成り立たせている力。神が砕け、散り、この世界の隅々にまで降り積もった、その欠片。


 人はそれをひとつだけ、体に宿して生まれてくる。


 炎を吐く者がいる。風を斬る者がいる。姿を消す者がいる。


 ――そして、水を握る者がいる。


 先に動いたのはグランだった。


 消えた。


 消えると同時に、砂が爆ぜる。踏み込みの音だけが残った。速い。あの図体で、あり得ていい速さではなかった。


 ――右。


 スイは避けなかった。

 正確には、避けきれなかった。


 丸太が肩口に叩き込まれる。


 骨の鳴る音がした。足が砂を掘り、そのまま後ろへ滑って――止まる。


倒れない。


「……お」


 声に、初めて感情が乗った。


「今の、受けたか」

「痛えよ」

「痛えで済む威力じゃねえんだよ」


 スイは肩を回した。動く。折れてはいない。


 ――海の民。


 同じ体積に、人よりも多くのものが詰まっている。骨も、肉も、水も。海の底の圧に耐えるために積み上げられた密度が、そのまま人の世で意味を持ってしまう。


 教会の壁に貼られた紙は、そこだけは嘘を書いていなかった。


 スイが息を吐いた。

 右手を、握る。


 掌の中で海水が渦を巻き、圧し潰され、密度を上げていく。手首から先だけが、深海の色になった。


「――おい」


 グランの表情が変わった。

 今度は困惑ではなかった。


「待て。それは」


 打った。


 拳がグランの腹に埋まる。

 ――その瞬間、水が中へ入った。


 衝撃ではない。振動だ。圧し固められた水が、皮膚も筋肉も素通りして、内側だけを揺さぶった。


 巨体が、内側から跳ねる。


 膝が落ちた。両手が砂につく。口から吐き出されたものが、白い砂に黒い染みを作った。


 スイは追撃しなかった。


 拳を解き、水を海へ返す。それから、しゃがみ込んだ。

倒れた男と目線の高さを合わせるためだった。


「……なんだよ」

「あんた、なんで最初に殺しに来なかったんだ」


 グランの動きが、止まった。


「消えたまま首を折りゃ済む話だろ。俺、気づいてなかったかもしれねえのに」

「わざわざ肩を狙った。手加減してたろ」

「……買いかぶんな」

「じゃあもう一個」


 スイは、まっすぐ男の顔を見た。


「あんたがさっき村を見た時の顔。昼間の使者と、全然違ったぞ」


 波の音がした。


「……」

「焼きたくねえんだろ、あそこ」


 グランは答えなかった。


 砂に手をついたまま、しばらく肩を震わせて――それから、笑った。

 笑って、吐いた。もう一度、笑った。


「……うるせえ」

「うるせえよ、ガキが」


 男は袖で口を拭い、片膝を立てた。


「二日だ」

「あ?」

「軍がここに来るまで、二日ある」


 顔を上げる。傷だらけの首筋に、月が当たっていた。


「その間に王を黙らせりゃ、村は焼けねえ」

「できんのか」

「できねえよ」


 あっさりと言った。


「だから、俺が言いに行く」


 男は立ち上がった。

立ち上がるだけで、砂がずいぶん低くなったように見えた。


「お前は待ってろ」

「なんでだよ」

「顔を見られてる。お前が行ったら、話が終わる」


 ――その言葉を、スイは聞いていた。


 聞いていて、頷かなかった。


 二日後。


 グラン・ボルクは、獣王の前に立つ。


 そして二度と、自分の足では戻ってこない。

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