第1話 海の子
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
---プロローグ---
雨が降っていた。
男はそれを、雨だとは思わなかった。空から落ちてくる水の粒。ただそれだけのもの。濡れれば冷える。冷えれば動きが鈍る。だから軒下に立つ。それ以上の意味は、この世界のどこにも存在しない。
――かつては、違った。
降ればうるさいと笑い、止めば行くかと言った。隣に誰かがいた。名前を呼べば返事があった。返事があるのが当たり前だと思っていた。
当たり前だと、思えていた時期が。
たしかに、あった。
――俺は一度、間違えた。
何をどう間違えたのか、ここで語るつもりはない。語る相手がいない。語ったところで理解されない。理解されたいと思っていた頃もあった気がするが、それはもう遠い。
遠すぎて、思い出そうとすると指の隙間から零れていく。
残ったのは結論だけだ。
正しさというものは。
――優しさの形を、していない。
軒下から一歩、雨の中へ出る。
濡れることを厭わなくなったわけではない。ただ、そろそろ行かねばならない時刻だった。
水が頬を伝った。
雨だ。
――雨だった。
瞳に光はない。あるべきものが、そこにはなかった。
さて。
これから始まるのは、まだ何も知らない者たちの物語だ。
誰も知らない。この世界がどう終わるのかも、誰が終わらせるのかも。
知らないまま笑い、知らないまま生きて、知らないまま前へ進む。
――それでいい。
知っていて進める人間など、いない。
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【第一話 海の子】
水面が割れた。
飛沫が朝日を弾き、一瞬だけ空に虹の欠片を散らす。それが落ちきるより早く、青年は岩場へ手をかけて身体を引き上げた。
息を吐く。一度きり。
陽が指の幅ぶん動くだけの時間を水底で過ごした人間の呼吸では、それは断じてなかった。
スイ・ガレン。
この村ではただ、スイと呼ばれている。
肩に担いだ網の中で、魚が三匹跳ねていた。腕は細い。見た目のとおりに細い。ただしその細い腕が片手で押さえつけている魚は、大人が両腕で抱えてようやく持ち上がる代物だった。
「今日は多いな」
誇るでもなく呟いて、スイは笑った。
――胸の奥が、じんわりと熱い。
深く潜った日はいつもそうなる。冷えるべき場所が、なぜか温かい。物心ついた時からそうだった。だから気にしたことがない。
気にする理由が、まだなかった。
浜に人影がひとつあった。
腰の曲がった老人が丸太に腰かけ、煙管をふかしている。
「バルドさん、朝からそれか」
「朝だから吸うんだ。夜は寝る」
「理屈になってねえよ」
「なってなくても煙は出る」
スイは網を下ろし、その隣に腰を落とした。濡れた髪から水が滴り、砂に小さな染みを作る。染みはすぐに乾いた。
バルドは煙管を口から離し、しばらく海を見ていた。
「潜りすぎだ」
「浅いとこにいねえんだよ、あいつら」
「そういう話をしとらん」
声が、わずかに低くなった。
「――誰かに見られたら、どうする」
スイは答えなかった。
この村に、スイの生まれを知らない者はいない。
そして、それを口にした者もいない。
海の民。
名前だけは伝わっている。海辺を渡り歩く、世界で最も古い民のひとつ。土地を持たず、国を作らず、代わりに何かを運び続けているという。
何を運んでいるのかは、誰も知らない。
知られているのは、その先だけだ。
――曰く、人ならざる肉を持つ。
――曰く、人ならざる力を持つ。
――曰く、見つけたら近づくな。報せろ。
海を持つ国であれば、どれほどの辺境だろうと、教会の壁に同じ一枚が貼られている。文字の読めぬ者のために絵まで添えられている。子供でも諳んじられる。
――諳んじられるように、書かれている。
誰が。
何のために。
そこまで考える人間は、いない。
危険だと言われれば、危険なのだ。
人はそういう風にできている。
尤も。
その一枚を最初に書かせた者だけは、彼らが危険でないことを知っていた。
知った上で、書かせた。
だから、見つかればどうなるかも決まっている。
報せが上がる。人が来る。連れて行かれる。
連れて行かれた先で何があったのかを語った者は、まだひとりもいない。
この村の人間は、そのくらいの想像力を持っていた。物を知らぬ田舎者だと都の連中は笑うだろう。だが知恵と知識は違う。
教会の壁の一枚は、ずいぶん昔に破られている。
誰が破ったのかは、村の全員が知っていて、全員が忘れている。
だから誰も、何も言わなかった。
ある日ひとりの男がこの浜へ子供を置いていった、その日から今日まで。ただの一度も。
「バルドさん」
「なんだ」
「俺、いつまでここにいていいんだ」
煙管が止まった。
老人は答えなかった。答える代わりに、煙を吐いた。海風がそれを攫っていく。
「死ぬまでいろ」
しばらくして、そう言った。
「俺が死ぬまででも、お前が死ぬまででもいい。どっちが先でも構わん」
スイは笑った。
笑って、それから空を見上げた。
雲が、ひとつもなかった
…異物が来たのは、その日の昼過ぎだった。
最初に気づいたのは犬だった。
村外れの老犬が鎖を引きちぎらんばかりに暴れ、それから――ぴたりと、静かになった。腹を地につけ、おとなしくなった。
次に気づいたのは子供たちだ。
誰かが「知らない人がいる」と言った。
村の全員が、後になってこう証言している。
――見た気はする。いつからいたのかが、思い出せない。
男だった。
背は高くない。痩せてもいない。特徴らしい特徴が、ひとつもない。
旅装をしている。だが靴が新しい。この村へ来るには丘をひとつ越えねばならない。越えた人間の靴が、そんな顔をしているはずがなかった。
――歩いて来ていない。
この浜まで、誰かに運ばせた男だ。
男は村の中央、井戸のそばに立っていた。誰を待つでもなく、ただ立っていた。
そして、村を見ていた。
家を、井戸を、干された網を、老人を、子供を。順に、ゆっくりと。
――数えるような目つきだった。
スイが近づくと、男は顔を上げ。
そして、微笑んだ。
「見つけた」
その一言で、村の空気が変わった。
誰かが息を呑む音。誰かが子供の口を塞ぐ音。バルドが煙管を落とす音。
それら全てを聞き終えてから、スイはようやく口を開いた。
「誰だ、あんた」
「ヴィス・ノーレンと言います」
名乗った。
あまりにあっさりと名乗ったので、スイは一瞬言葉に詰まった。
「獣王様の使いです」
――村の隅で、誰かが小さく呻いた。
この一帯を治める王である。
都より遠く、法より近い。
この浜で生まれ育った人間にとって、その名は天気とほとんど同じ意味を持っていた。
逆らえるものではない、という意味で。
「ラグナロクに出なさい」
「……ラグナロク?」
ヴィスの眉が、ほんのわずかに動いた。
侮蔑ではない。もっと純粋な、珍しいものを見た時の動きだった。
「知らないんです?」
「聞いたことはある。歌の中でだけな」
「歌になる程度には有名で、中身を知られん程度には遠い。まあ、そんなものでしょう」
男は井戸の縁に、軽く腰を預けた。
「各国が代表を立てる。互いに潰し合う。最後まで立っていた国が、世界の在り方を決める」
風が、少し出てきた。
「この世界で唯一許された、殺し合いの形です」
「――そこへ出ろと言っています」
スイは、しばらく何も言わなかった。
「出て、どうなる」
「勝つ。世界は獣王様のものになります。貴方はその一部になる」
「俺が」
「ええ貴方が」
背後に村があった。バルドがいた。
子供がいた。魚を捌く婆さんがいた。
今朝までと同じ場所に、同じ人間が、同じように立っていた。
それを一度だけ振り返って、前に向き直る。
そして、笑った。
「断る」
ヴィスの表情は変わらなかった。
変わらないまま、もう一度だけ村を見た。今度は数えなかった。数え終えていたからだ。
――この村は、軽い。
男26。女31。子供14。老人が9。舟が4つ。井戸がひとつ。
全部束ねても、片側の皿はぴくりとも動かない。
もう片方の皿に載っているのは、たった一人だ。
「そうですか」
それだけ言って、ヴィスは背を向けた。
「では、また来ます」
――そこで、足が止まった。
振り返る。もう一度、スイだけを見る。
微笑みが、一瞬だけ止まった。
合わない。
目方が合わない。
この青年は、確かに強い。海の民だ。
それは最初から知っていたし
だからこそ量りに来た。
だがそういう話ではない。
――1人分の重さを、していない。
二人でもない。三人でもない。数えられない。皿の底が抜けている。針が振り切れているのではなく、そもそも指す場所がない。
ヴィス・ノーレンが生涯でこの感覚を味わったのは、後にも先にもこの日を含めて三度きりである。
残る二度が誰であったかは、まだ語る時ではない。
男は微笑みを戻した。
「……ああ、いや」
「なんだよ」
「なんでも。魚が美味しそうだと思っただけですよ」
誰も、その男が村を出ていくところを見ていない。
その夜、スイは眠らなかった。
浜へ出て、水に足を浸したまま、夜が明けるまで座っていた。
波の音がした。
いつもと、同じ音だった。
――やがて。
この村は、燃える。
だがそれは、まだ少し先の話だ。




