↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/72

第70話『それほどの差』

第70話『それほどの差』

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】



 強さとは、いつか届くものだと信じていた。


 ――届かぬものを、人は憧れと呼ぶ。


 その言葉の意味を、ヴァルガス・レインはこの夜明けに初めて知る。



 灰色の光が、旧アサナルドの稜線を縁取っていた。


 ヴァルガスは、皇帝の前に立っていた。

 立っている、というより、崩れずにいるだけだった。


 膝から下は、もう己の脚という感覚がない。

 両の目は、血の色に濁っている。


 この数日、俺の頭の中には、ただ一つの点しか無かった。


 休むな。

 進め。

 皇帝のもとへ。

 塞ぐものは、斬れ。


 それ以外の思考は、とうに擦り切れて落ちていた。


 だから口から出た言葉も、その一点だけだった。


「アレは、どういうことだ」


 声が掠れた。


ブラッド第二席ノエル・ハインの鋭い眼が

訝しげに細まる。


「アレ、とは」


 二席の女の声は硬い。


「貴様、転移の後どこにいた。――先にアサナルドへ回り、何かを見てきたのか」


 ――違う。


 そう返す気力すら、残っていない。

 だがこの女に伝えねば


俺の視たものが、どこにも残らない。

 

擦り切れた思考のたった一点から

言葉が零れた。


「森だ」


 掠れた声。


「円く抉れた森で、俺とレンは七戒と斬り合った。怠惰と嫉妬」

「座ったまま森を動かす男と、他人の技を丸ごと奪う男。――二匹とも、化物だ」


 ノエルの眉が寄る。

 話が、速すぎて繋がらない。


「同じ森に、海の民の小僧がいた。水を操る餓鬼だ」

「そして――七戒とやり合っている女がいた」


          


 ヴァルガスの濁った目が、ゆっくりと虚空へ向いた。


 血に濡れた鋼の指が、その女を指した。


「あの強さといい」


「お前に、よく似ていた」


「赤い目。輪郭の溶けるような、あの気配。――あの赤い男は、その女を"グリム"と呼んだ」


          


「どんな関係かは知らんがその女に似た修道服の少女も、いた」


 ヴァルガスは続けた。


「白い髪に赤い目。やはりお前達によく似た娘だ」


 ――その娘の名を、ヴァルガスは知らない。

 ただ、虚空とその姉に連なる何かとだけ

濁った頭が告げていた。


          


「ライもいた」


 声が、わずかに和らいだ。


 怒りに灼かれても、それだけは忘れていなかった。


「二匹の七戒を相手に立っていた。――俺が離れた時には、五席と四席、どちらも生きていた」


          


 その一語に。


 皇帝の眼がほんのわずか動いた。


 ――やはり生きていたか。


 ヴァルガスにはその機微の意味までは分からない。

 分からぬまま、最後の一点を吐き出した。


「そこへ、アレが来た」


「赤い髪の、黒衣の男だ。俺と同じ服装をしていた、座ったまま森を操る化物の上半身を片手に、技を奪う化物の首をもう片手に提げて歩いてきた」


「七戒の二匹を瞬きの間に。――俺は何も見えなかった」


 ヴァルガスの声が震えた。

 恐怖でも怒りでもない。

 それより、もっと底の知れぬ何か。


「俺の鋼は指一本で捌かれた。デコピンひとつで吹き飛ばされた」


「グリムは奴を"BLOOD"と呼んだ。――皇帝様からの通達に来た、と」


「もう一度聞かせてくれ」


「アレは、どういうことだ、皇帝様」

「同じ特務機関ブラッドの服を着た、俺の知らねぇ六人目が」


          

皇帝よりも先に虚空が口を開く

腕を組んだまま、ふ、と息を吐く。


「グリムは私の姉貴だ、言の葉の塔の管理人でな」

「お前、よくあの森からここまで生きて来た」


 その声に、棘はなかった。


「気に病むな、とは言わん。あれを前にして平気な者のほうがどうかしている」

「私も姉貴もあれとは長い付き合いだ。――未だに、底が見えんのだからな」


          


 ノエル・ハインは、その奔流を、半分も飲み込めていなかった。


 七戒。

 海の民。

言の葉の塔

 グリムと呼ばれた女。



 そして、特務機関ブラッドの、六人目。


「――お待ちを」


 常に即断で隊を動かす女が、初めて処理を止めていた。


「一度に多すぎます。一つずつでなければ私には追えません」


          


 だがガウェン・ドルツは、何も問わなかった。


 老兵は、ヴァルガスの濁った目をただ静かに受け止めている。

 ――この男は、俺が何を言っているのか、分かっている。

 そういう目だった。


          


 やがて、皇帝が口を開いた。


「隠すには、もう遅い段だ」


 低く、短い。


「お前には、俺の口から話しておく」


          


「その名は、BLOOD。グリムが呼んだ通りだ」

「何代も前の皇帝の頃から帝国にいる。人の寿命では測れん。どこから来たのかも、何なのかも、帝国ですら掴みきれていない」



「お前達ブラッドの五席は、あの一人を隠すために幾世代もかけて組まれた看板だ」


          


 ノエルの鋭い眼が、見開かれたまま揺れた。


「……そんな存在が。聞いたことも…ない」


 一方で、ガウェンは眉ひとつ動かさない。


 ――知っていたのか。


 ヴァルガスの胸の奥が冷えた。


 最も長く皇帝に仕えた老兵は、驚いていない。

 知らされていたのは、最強を誇った俺ではなく。

 ――最も信を置かれた、この男のほうだった。


          


 ――看板。


 俺が。

 この鋼が。

 七戒を相手に一歩も退かぬと誓った、この俺が。


帝国最強"だったはず"の俺が、俺たちが



 ――たった一人を隠すための看板だと。


          


「あれがあの森にいたのは、俺の差配だ」


 皇帝が続けた。


「グリムへ文を届けさせた。あの女の塔はどこの誰も把握はできていない、帝国ですら虚空を通さなくてはわからなかった」


「世界が束になっても辿り着けぬその場所へ文を運べる者は、帝国広しといえどBLOODの他にいなかった」


          


 世界が、終わる側へ傾きかけている。


教皇は言の葉の塔すらも把握しかけているかもしれない


ならば何かが起こる前に

報せておかねばならぬ。


 それが皇帝の算段だった。


          


「文は届いた。だが――あれを使者に立てたことで、森にいたお前とレン、そしてライの目にBLOODが触れた」


 皇帝の声が、わずかに沈んだ。


「幾世代も伏せてきたものを、俺は、たかが一通の文のために晒した」

「これは俺の差配の綻びだ。お前が負うものではない」


          


 ――たかが、一通の文。


 ヴァルガスの鋼の指が軋んだ。


 俺が崩れたのは。

 この生涯が根こそぎ覆されたのは。

 戦ったからでも、敗れたからでもなかった。


 皇帝が、よその女へ文を一通送った。

 俺が視たのは、そのついでだった。



「お前には特に伏せてきた」


 皇帝は続けた。


「お前は帝国最強を目指す男だ。それだけを支えに、ここまで来た」

「あれの存在を知れば、お前が積み上げた強さが、お前の中で保てなくなると見た」


          


 ヴァルガスは、その言葉を一度では飲み込めなかった。


 飲み込んでから、腹の底が焼けた。


 ――憐れんだのか。


 この皇帝は。

 俺が折れるのを見越して。

 俺の支えが砕けるのを惜しんで。

 だから俺にだけ、黙っていた。


 ――俺を、守ったつもりか。


 それは、俺が一番されたくなかったことだ。



「――ふざけるなァッ!」


 ヴァルガスの体が地を蹴った。


 満身創痍の脚が、それでも皇帝の胸倉へ跳ねる。



 その憐れみを掴んで、引き剥がそうとでもするように。


          


 だが、その手は皇帝に届かなかった。


 横から伸びた老いた腕が、ヴァルガスの鋼の手首を掴んで捻じ伏せる。

 ガウェン・ドルツ。

 反対の肩には、ノエル・ハインの膝が食い込んでいた。


 ――止められた。


 一席と、二席に。


          


 ありえない、はずだった。


 万全の俺なら、この二人がかりでも止まりはしない。

 席次など、何の意味も持たないのだ。

 この二本の鋼で俺はとうに二人を抜いている。


 ――だが、今は。


 BLOODに吹き飛ばされてから、俺は一度も休んでいない。

 山肌に叩きつけられた体を引き起こし、皇帝の方角だけを頼りに歩き続けた。

 道を塞ぐものは、すべて斬った。

 転移で湧いた魔族。

 核のない魔獣。

 立ち塞がる端から、皆殺しにしてきた。


 お陰でこの体には、斬り裂いた連中の根源力の残り滓が、どす黒く染みついている。

 それが今、俺の経路を内側から灼いていた。


 ――満身創痍。


 そんな生易しい言葉で、足りるものか。


          


「――離せ…ッ」


 ヴァルガスは、なおも前へ出ようとした。


 どこへ、とは自分でも分からない。

 ただ、ここで止まってはならない気がした。


 止まれば俺は、"帝国最強ではない俺"を認めることになる。


          


「皇帝様の御前だ」


 ガウェンのしわがれた声。


「退けヴァルガス。今のお前は俺にすら止められる」


 ――それが、答えだった。


          


 ノエルの手刀が、ヴァルガスの首の後ろへ短く落ちた。


 視界が滲む。

 膝が抜ける。


 ――畜生。


 俺は、まだ。


          


 ヴァルガスの意識は、そこで途切れた。




 倒れたヴァルガスを、ノエルが抱え起こした。


「皇帝様。この男、いかがなさいます」


 ノエルの声は鋭く、しかし硬い。


「連れて行けば、アサナルドで死にます。体も、心ももう保ちません」


「かと言って、守りながら戦う余裕も我々にはありません」


          


 皇帝は、倒れた男をしばし見下ろした。


 それから短く告げた。


「置いていく」


          


「ここに寝かせておけ。目覚めて動けるなら、動けばいい。動けぬなら、それまでだ」

「連れて行って殺すよりは、置いて生かす目のほうがまだ高い」


          


 ガウェンが無言で頭を垂れた。


 それが最古参の兵の、是であり、非でもあった。


 一行はアサナルドへ向けて、再び動き出す。

 倒れた鋼の男を、夜明けの野にひとつ残して。




 どれほど経ったか。


 ヴァルガスは、目を開けた。


 空が白い。

 もう夜明けではない。

 皇帝の一行の気配は、とうに遠い。

寝ていた影響か、すこし冷静な気がした


 ――置いていかれたか。


 体は動く。

 動くがそれだけだ。

 立ち上がる気力の在処が、どこにも見つからない。


          


 仰向けの視界に、あの赤い男が――BLOODが、滲んで浮かんだ。


 ――あの男なら。


 こんな無様は晒さない。

 休まず歩いて、力尽きて

味方に気絶させられる。

 そんなヘマは、しない。



 満身創痍だったとしても、あの男ならガウェンとノエルの二人くらい、片手で、いや小指で捻じ伏せていた。


 ――いや。


 そもそも、だ。


 BLOODが満身創痍になっている姿など、俺には想像もできない。


          


 試しに、立場を逆にしてみる。


 俺があの男で、あの男が俺なら。


 ――駄目だ。


 首をもがれて転がっているのは

どう思い描いても俺の姿だけだった。



 あの男が擦り傷ひとつ負っている姿すら、浮かばない。


 それほどの差。


          


 俺は、強さを渇望してきた。


 自分より強い相手が現れても構わなかった。

 特訓すれば、いつか届く。

 そう信じていられた。


 現に俺は昔、一席に勝てなかった。

 勝てなかった相手を、歳月をかけて


この鋼で抜いた。


 強さとは、そうやって積み上げるものだった。


 ――だが。


 あの時のあの男は


俺の手を、届かせすらしてくれなかった。


          


 これまで俺が重ねてきた戦いが

生命と生命の魂の削り合いだったのだとすれば。


 あの森で俺があの男に対してやったことは。


 ――世界ごと呑み込む津波相手に、それを殺そうとナイフ一本を突き立てているようなものだった


 それほどに無謀で。

 それほどに滑稽で。

 そして、どこまでも小さかった。


          


 初めてBLOODの力を視た時。


 隠されていた、という事実も相まって

俺は激しい怒りに灼かれた。


黙っていた皇帝に。

俺の上にあれを飼っていた帝国に。


そして、あの男そのものに。


 ――だが。


 気づけば俺は、もうあの男と自分を比べ始めている。

 無意識のうちに。


 ――憧れ始めている。


          


 憧れとは。


 ――届くと信じることをやめた者だけが、抱くものだ。


 手が届くと思っている間、人はそれをただ、目標と呼ぶ。

 二度と届かぬと悟った、その時に。

 それは初めて、憧れに変わる。


 ――つまり俺は、もう。

 追うことを、やめている。


          


 こんな感情は、初めてだった。


 ――思えば。


 俺が強さを求め始めたのは、大切な者をことごとく奪われた、あの日からだ。



 ――強さは、守るための手段だったはずだ。



 なのに、いつからだ。


 守るための強さが、いつの間にか、強くあること自体にすり替わっていた。


 何のために強くなるのか。


 その問いが、とうに俺の中から抜け落ちている。



 現に今、俺は。

 あの男の背に届くためなら、何もかもを投げ出そうとしている。

 かつて強さで守ろうとした、そのすべてを。



 俺が俺である、その根すらも。




 ――手段が目的を、呑み込もうとしている。


          


 ――それでも。


 ここまで考えて、考え尽くして、なお。


 俺の裡に最後に残って立っているのは。


          


 ――帝国最強ではない、俺の姿だった。




 遠く。


 どこぞの、涸れかけた川のほとりに。


 黒衣の男が一人、立っていた。


 深く被ったフードの奥に、顔は見えない。

 渓谷でスイ達に刃を向け、十の玉座が集う場に音もなく現れた――あの男だった。


 男は、細りゆく水面を静かに見下ろしている。


          


「――強さ、か」


 乾いた声が、誰にともなく落ちた。


「強さで決まるなら、どれほど楽だったか」


          


 水面に映る己の輪郭を、男は指先で一度、乱した。


「――知っている。嫌というほどな」


          


 波紋が凪ぐ。


 凪いだ水面に、もう男の姿はなかった。


その歩の先は

確かにアサナルドへと向いていた



 ――第70話 完。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。